私たちが毎日飲んでいるお茶について、そして、政治・経済の戦略の駆け引きのなかから発見へといたり、茶の世界史における一大革命となった、アッサム茶の誕生についてご紹介します。

茶とは

(イメージ画)アッサム種は中国種と比べ葉のサイズは倍くらい大きく、熱帯でよく生育。
現在、茶とはカメリア・シネンシス(Camellia sinensis) のみを指すと定義されています。茶の品種は18世紀半ばからいろいろな説が展開されて混乱していましたが、現在、茶の学名は「カメリア・シネンシス」ただひとつで、多くの変種があるということで一応の見解がまとまっています。紅茶の世界でよく登場する中国種(Camellia sinensis var. sinensis)、アッサム種(Camellia sinensis var. assamica)というのはその変種とみなされています。学名というのは、18世紀、スウェーデンの植物学者で植物命名法の父と呼ばれる カール・フォン・リンネにより体系化され、属名+種小名からなる二名法(あるいは二命名法)であらわされます。現在もこの方法ですべての植物は分類されます。

アッサム種誕生について 謎の多い誕生の背景


さて、アッサム種というのはインドのアッサムにおいて発見された野生の茶樹で、ロバート・ブルース(Robert Bruce)が、1823年に発見したと一般的にいわれています。(そのとき発見した植物が真に自生する茶樹であると認められたのは後になってから。)
1787年、インドにカルカッタ植物園が、経済的効果をもつ植物や観賞植物の普及をめざした調査研究をさせることを目的として設立され、中国から運んできた茶も植えられていました。茶ではないかと考えられた植物が見つかると、茶樹であるかの基準は中国から運んだ茶樹が基準として、そこで判断されたわけです。
1823年の発見前後にもインドに自生する茶樹発見についての記述や、カルカッタへの鑑定依頼の記述がみられますが、いずれもはっきりとインド自生の茶樹であるとは認定されませんでした。

ともかく東インド会社が設立したカルカッタ植物園が認めなければ、インドに野生の茶樹が存在する事実は認められることはありませんでした。その背景には、カルカッタ植物園に中国種の茶樹しかなくて認定が難しかったという理由のほかに、政治的な要因もあったようです。つまり、東インド会社が中国貿易を独占していたので、インドにおいて野生の茶があると認められなかったようです。

東インド会社の中国貿易独占権は1833年に終わり、本国での茶の高い需要を満たすために今後の茶の確保に迫られることになりました。1834年、総督のウィリアム・ベンティング卿(Lord William Bentinck)がインドにおいて茶業委員会(The Tea Committee)を設置。中国種をインドへ導入し栽培できる可能性をさぐるのが目的でした。調査の過程において、インドには自生する茶樹があるということがわかったのです。
インドにおける自生茶を委員会に認めさせ、アッサム茶の栽培に尽力したのが、ロバート・ブルースの弟であるC.A.ブルースでした。

アッサム茶の開拓者 C.A.ブルース


C.A.ブルース(C.A. Bruce)は、1824年、ジュンポー族の首長ビーサ・ガムから茶樹と茶の種子を入手して自ら栽培。そして、ブルースにやってきた大きなチャンスは1835年のこと。インド政庁からアッサムでの茶栽培の監督官を命ぜられました。ブルースの監督下で作られた茶は、1836年には最初の1ポンドがロンドンに送られました。1838年には、488ポンドの茶がロンドンへ送られ、その翌年にはロンドンにてオークションにかけられました。ロンドンでの専門家たちの評価は中国茶とは異なる特徴をもつがおおむね満足だったようです。
現在アッサムがインドの大きな茶産業となったのも開拓者としてのC.A.ブルースの努力があったおかげなのです。
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