世界お茶まつり2007の一環として開催された国際O-CHA学術会議の基調講演にて林原美術館館長 熊倉功夫先生が「日本における喫茶の起源とその文化の歴史」について講演されましたので要点をご紹介します。
永忠のもたらした茶
団茶
熊倉功夫先生。 お茶の文化が、日本の食文化、マナーなどにも影響を及ぼしたとお話されました。 |
しかし、お茶はこのまま日本に根付き、広がっていくという過程をたどることはありませんでした。すんなりと日本で普及への道をたどらなかった大きな要因は、この団茶のテイストが日本人の口に合わなかったからだと熊倉先生は考えられます。
お茶を飲むという習慣はいったん消え、日本における茶の歴史に約400年の空白ができるわけです。
栄西のもたらした茶
緑茶 ~薬から嗜好品へ~
12世紀になって禅僧の栄西が宋からお茶を持ち帰ったことが、喫茶を広めるきっかけとなりました。このときは団茶ではなく緑茶(抹茶を点てて飲む方法)が紹介されました。栄西は『喫茶養生記』を著し、お茶の薬効を説き、お茶の普及に大きく貢献しました。このころのお茶というのは薬品としての効果が謳われておりました。機能性についてその当時から経験的に知られておりましたが、やがてお茶の旨み、渋みなどが日本人のテイストに合うようにもなっていったのです。そしてお茶は薬だからではなく、嗜好品として飲まれるようになります。おいしいから茶の味をさらに楽しむようになると、闘茶といったゲーム性を楽しむようなお茶の飲み方が生まれました。日本文化の基層となった茶の湯文化
日本におけるお茶の文化は茶の湯の文化と考えられます。14~15世紀には中国から美術、工芸品が入ってきますが、これらは唐物と呼ばれていました。15世紀前半、茶会と呼ばれるお茶を飲みながら中国の工芸品を楽しむという贅沢なパーティーが広まりました。これに対し、贅沢な美しさよりシンプルな美しさ。つまり、枯淡をよいとする思想(わび)が茶の湯に浸透します。村田珠光は不足の美しさを説いたのです。16世紀、千利休によって茶の湯が完成していきます。茶の湯の思想は、庭をつくること、新しい建築をつくることだけでなく、日本料理、日本人のマナーなど、生活のあらゆる文化のもとになっていると熊倉先生は考えられています。
文人精神の実現をめざす煎茶道
また、庶民の間では16世紀には煎じ茶が飲まれるようになっていました。これは今日のものとは異なるもので、煎じ茶といっても摘んだ茶葉を釜で炒ったり、湯で煮、むしろに乗せ、太陽で干し、煮て飲んでいたのです。茶筅(ちゃせん)、急須といった特別な道具を必要としませんでした。18世紀、抹茶をつくる技法で煎茶が作られるようになりました。茶葉に揉捻という作業が新たに加わったのです。18世紀半ば、今日の煎茶の形が出来上がりました。この頃、文人の間で新しい中国趣味が広がります。19世紀には煎茶道が成立し、急須が普及してきます。
熊倉先生は茶の湯とはお茶を飲むだけでなく、建築、人間の生き方にまで及ぶ文化であり、煎茶は文人精神・文化を実現するためにお茶があるという文化であると考え、茶の湯と煎茶文化を説明されながら、私たちは2つの茶文化を持つという世界に例のない日本の茶文化ができたと結ばれました。
■協力
林原美術館館長 熊倉功夫 先生。
世界お茶まつり2007実行委員会
■関連リンク:世界お茶まつり2007