もうご覧になりましたか? 十一代目市川海老蔵の誕生の瞬間を。『源氏物語』の新之助、NHKの大河ドラマ『武蔵』や、トーク番組、また各種メディアに露出した新之助など、今までもいろいろな表情の彼をわれわれは観てきました。ですが襲名披露という晴れの場で家の芸を見せる歌舞伎役者としての海老蔵の姿に、やはり一番魅力を感じるのですがいかがでしょう。
そして、その魅力の一つが独特の「リアリティ」だと筆者は思います。その魅力を解剖してみます。
五月歌舞伎座の筋書きとチラシ
●フレッシュ、そしてシンクロさせる『暫』
テレビなどでも放送された『暫(しばらく)』は歌舞伎十八番の代表作であり、荒事の典型であり、江戸の庶民が喜んだ勧善懲悪もののド派手なヒーローが登場します。
それが鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)。
花道に現れる彼の姿がちょっとすごい。蟹足のような鬘に、正月の凧のお化けのような衣裳、なにやら太い縄を背負っているし、なのにアタマには白いリボンなんてつけて。一体この人は何者?と思うほうが普通でしょう。
舞台には長髪の鬘に怪しそうな隈取、赤っつらで腹を出した人々などが並んでいますが、これが悪玉。先のド派手クンがこの悪玉を「しばらく」といって止めてやり込めるというストーリーです。
筆者もかつて何度か『暫』を観ましたが、今回権五郎が登場してきたときの印象はそれまでと全く違うものでした。正義の味方、ヒーローといえば、アニメの鉄腕アトムや戦隊もの、巨大ロボットといった時代に育ったためか、本当にそういう元気でフレッシュな、イキのいい若者がやってきたという感じを受けました。そのやんちゃな若者に、舞台の上の大人の悪玉が手をこまねいている。そんな構図が見えました。
しつこいですが、筆者が歌舞伎十八番という様式性の高い演目の主人公というものに、これまで抱いていた印象と異なるものでした。これまでは「ありがたい」「めでたい」というような気分が強かったのですが、今回の海老蔵の『暫』は、観ていて楽しく、うれしく、ワクワクする感じにあふれていました。自分も子供になったような気持ちで一緒に善玉を応援する気分になって、「頑張れ~!権五郎君!」「そうだそうだ!やれやれ!」なんていう素直な気持ちになれました。
これは何故なんでしょう? もちろん海老蔵が若い!ということもいえます。まさに「時分の花」の真っ盛り。
ですが今回に限らず、上記のことは過去の新・海老蔵が出演した狂言すべてに言えることなのです。あくまでも筆者の個人的感想ですが。
特に、『源氏物語』の光の君、『鳴神』の鳴神上人、『実盛物語』の実盛・・・。『源氏物語』は新作だとしても、他の狂言は荒事の様式性の強いものだったり、義太夫狂言という型のきっちり決まったものだったりと、つまりはクラシックな狂言であるわけですが、なぜか海老蔵演じる主人公に、いつも自分が知らずのうちに、共感し、シンクロしているような気分になるのです。リアルな気分・・・それも、「写実的」なのとはちょっと違うわけです。
歌舞伎では、演目にもよりますが、「お生(なま)」、つまりあまりにも写実な演技をすることをあまりよしとしない風潮があります。あくまでも江戸の気分を大事に、虚構の世界を大事にする考え方もあるのだと思います。
写実という意味での「リアル」とは異なる「リアリティ」を、海老蔵演じる主人公の言動に感じてしまうのです。歌舞伎とはいっても現代人が演じるのだから、と言ってしまえばそれまでですが、他の役者とはまた別の「リアリティ」なのだから、海老蔵という役者固有のものではないか、とも思います。