たとえば化政期の四世鶴屋南北の作劇術とは明かに異なります。幕藩体制崩壊期のエネルギーを拡散させるため、南北は「趣向と仕組」による独自の「世界」を作り上げることに全精力を傾けました。あえて聖と俗、善悪など一元化しやすい演劇構造を避け、猥雑感やきょう雑物を積極的に取り込み、「ないまぜ」の手法を最大限に活用したわけです。
当時の狂言作者のテリトリーであり表現の主たる場でもあった狂言の中の浄瑠璃の詞章などにはあまり執着がなかったようで、目下の作者に書かせているほど「趣向と仕組み」にこだわったようです。
黙阿弥の作品に比べ、主役も脇役も、南北が仕組む「世界」を構成し、かつ新しく生まれた役柄を生かす素材であり、さらにそれぞれが独立した世界を背負っています。「東海道四谷怪談」の凝りに凝ったからくりなどを見ても、黙阿弥に比較して「空間」を志向した作者でした。
黙阿弥の作品は、南北に比べ奇抜さには欠けますが、明治期の団十郎や菊五郎に「活歴」「散切り」狂言を書きつづけ、時代の要請にこたえ続けてきたのも、そして作品の多くが現代でも頻繁に上演されつづけているのも、この「三親切」のドラマツルギーに最大の理由を見つけることができそうです。明治の文芸の大御所・坪内逍遥に「江戸演劇の大問屋」と名づけられたように、歌舞伎の歴史上、最大級の重鎮だったのです。
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