泣いて笑って、感情の赴くままに育てる
「子は宝」のイタリアでは、子供のマナーに無頓着? |
子供が泣きたい、叫びたい、じゃ、どうぞ。と子供の感情を優先させます。
「笑ったり、泣いたり、そのときどきの自分自身の感情をしっかりと感じさせる」ことが、豊かな感情を育てるからだと言います。おかげさまで、イタリア人は感情が豊か。泣いたり笑ったり、表情筋は日本人の数百倍発達していることでしょう。
大人の都合で、子供の感情をコントロールすることは、子供にとってはツライこと。かといって、子供をコントロールしたくないから、周囲に迷惑にならないようにお出かけは控えることもありません。もしも電車の中で「子供が泣いてウルサイ」と思うような人がいれば、「うちの子がウルサクしてスミマセン」と、そんな風に恐縮する母親を見たことはありません。
「子供が迷惑かけるのは、しょうがないでしょ。だって子供なんだから」と、堂々たる母親の主張は、他人に迷惑をかけないことが基本にある日本のお母さん方とはだいぶ違いますよね。さすが「子は宝」のイタリア。その宝を産む母親は絶対的な存在です。「うちの子の声がウルサイ?あんたの耳がおかしいんじゃないの?」と言った母もいました。
お母さんのリラックスは子供に伝染
それにしても、子連れに母子に対しての周囲の気の配り方は、心が温まるものがあります。公共の場で我が物顔に振舞う親子を見ていて、「いくらなんでももう少し恐縮しろよ」と心が温まる以上に、はらわたが煮え繰り返る場面に出くわすこともままありますが、イタリア人は本当に優しく見守ります。やはり母子が大切にされている姿を見るのは、これから子供を産もうとしている人にとっても、ホッとするものではないでしょうか。「なんだか大変そうだな」と若い女性に思わせる社会の姿が、少子化を進めている可能性もありますからね。
世の中全体が子育てを支援
東京のとある駅で、こんな光景を目の当たりにしたことがあります。幼児連れ+ベビーカーの若いお母さんが、髪を振り乱して階段で苦戦していました。お母さんは、階段の下にベビーカーを置き、ぐずる3歳児を階段の踊り場まで引きづり上げ、泣く幼児をそこに座らせ、再び階下に戻って、今度はベビーカーをひとりでかついで運んでいたのです。割合人通りのある時間でしたが、私以外に手を貸す人はいませんでした。
イタリア、多分、他のヨーロッパ諸国でも、こんな光景は「絶対」にありません。
周りが手を貸す。本当に当たり前のこと。そして、お母さんも助けられて当たり前と思っている。イタリアには「階段」がネックになって外出できないベビーカーのお母さんは存在しないのです。
お母さんが外でも家でも、精神的にリラックスして自由に振舞えることは、
子供に意識を集中できるわけで、母子間の心の交流が増えていきます。母親にしっかりと支えられている子供ほど、のびのびしていられるものです。
→次は「楽天主義で人生を謳歌できる子供に育つ」