清めの塩の歴史と由来を解説!
<目次>
塩は生命を維持していくものに必要なものです。塩にまつわる逸話は世界各地に残されています。
キリスト教では旧約聖書の中に「あなたがたは地の塩である」と触れられていますし、日本では「古事記」にイザナギのみことが黄泉の国で腐敗した妻の姿を見て逃げ帰った後、海水で清める「禊祓(みそぎはらい)」をしたという文が記されています。
日本人の祖先は、よくないこと、例えば天災や病気、事故などが起こった場合、目に見えるひとつの形として「塩をつかって清める」ことを行っていました。地鎮祭などの神事では、必ず盛り塩が供えられます。代々、習慣・習俗として伝わってきたものなのです。
店先に盛り塩を置くのは日本だけの習慣ではなく、中国でも行われています。今から1300年前の晋の時代、始皇帝は牛車に乗って後宮を廻るのですが、その際、人々は始皇帝が自分の家の前を素通りしないで止まるように牛が好む塩をまいておいたそうです。この逸話がもとで、盛り塩は「客を招く」といわれ、店先に置かれるようになったといわれています。風水でも「福を呼ぶ」と盛り塩を置くことを提唱している専門家は多いようです。
一方、日常生活では食べ物を殺菌したり浄化したりするだけでなく、塩漬けや干物等の保存食を使用するのにも不可欠な塩。科学的に見ても安定した物質で腐敗もしないことから、法律で定められている賞味期限の設定も免除されているほどなのです。
ご遺体の腐敗の進行を遅らせるためにも使われていた塩ですから「不浄のものを清める」という意味があるのは習慣として理解できても、つい数日前まで生きていた人を「汚いモノ」扱いするのには抵抗がある、と疑問を持つ人も少なくありません。イヤな来客が帰ったときに「塩を撒け!」と追い払う光景を思い描くと、親しい人が亡くなったときに塩を撒くことにどういう意味があるのか考えてしまう人がいても当然です。
神道では死を「ケガレ」と考えます。古事記に黄泉の国くにから戻ったイザナギノミコトが自らの体に付いた黄泉の国のケガレを祓うため、海水で「禊祓(みそぎはらえ)」をおこなったことが記されているように、浄化するための象徴的な行為として清めが行われきました。
また昔はドライアイス等がありませんでしたから亡くなると腐敗がみるみる進行し、衛生面も悪く、悪臭を放っていたことでしょう。「汚いもの」として扱われたのは当然のことかもしれません。また「ケガレ」を漢字で書くと「穢れ」になりますが、言葉の意味は「気枯れ」から来ているともいわれています。つまり人が亡くなって悲しみのあまり「気」が「枯れてしまう」という状態のこと。その「気」を元の状態に戻すために塩というツールを使って元に戻す「清め」が行われていたのかもしれません。
なお浄土真宗の教義では基本的に「清め塩」は使いません。生と死をひとつの世界として捉えているため死はケガレたものではないという考え方からです。
一般の人は清め塩に対してどのように感じているのでしょう。「あなたは清め塩をつかいますか?」と聞いたところ、次のような返答がありました。
日本のお葬式は、さまざまな文化や習俗、宗教の影響をうけて現在の形になっています。仏教式の葬儀であってもお釈迦様の時代、各宗派の開祖の時代とは異なった形式で進められています。
祭壇・位牌・年忌法要などは儒教、戒名(法名)・火葬は仏教、黒い喪服は西洋文化の影響を受けています。葬儀と清め塩の関係、その考え方や使用の是非は、時代の流れで変化していくことも考えられます。
清め塩を使うかどうかは考え方次第。習俗・信仰・地域等……さまざまな事情が絡んできますので、結局のところ自分自身で判断することになります。
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清めの塩の歴史と由来
神道葬儀では必ず祭壇に塩をお供えします。 |
キリスト教では旧約聖書の中に「あなたがたは地の塩である」と触れられていますし、日本では「古事記」にイザナギのみことが黄泉の国で腐敗した妻の姿を見て逃げ帰った後、海水で清める「禊祓(みそぎはらい)」をしたという文が記されています。
日本人の祖先は、よくないこと、例えば天災や病気、事故などが起こった場合、目に見えるひとつの形として「塩をつかって清める」ことを行っていました。地鎮祭などの神事では、必ず盛り塩が供えられます。代々、習慣・習俗として伝わってきたものなのです。
店先に盛り塩を置くのは日本だけの習慣ではなく、中国でも行われています。今から1300年前の晋の時代、始皇帝は牛車に乗って後宮を廻るのですが、その際、人々は始皇帝が自分の家の前を素通りしないで止まるように牛が好む塩をまいておいたそうです。この逸話がもとで、盛り塩は「客を招く」といわれ、店先に置かれるようになったといわれています。風水でも「福を呼ぶ」と盛り塩を置くことを提唱している専門家は多いようです。
一方、日常生活では食べ物を殺菌したり浄化したりするだけでなく、塩漬けや干物等の保存食を使用するのにも不可欠な塩。科学的に見ても安定した物質で腐敗もしないことから、法律で定められている賞味期限の設定も免除されているほどなのです。
ご遺体の腐敗の進行を遅らせるためにも使われていた塩ですから「不浄のものを清める」という意味があるのは習慣として理解できても、つい数日前まで生きていた人を「汚いモノ」扱いするのには抵抗がある、と疑問を持つ人も少なくありません。イヤな来客が帰ったときに「塩を撒け!」と追い払う光景を思い描くと、親しい人が亡くなったときに塩を撒くことにどういう意味があるのか考えてしまう人がいても当然です。
ケガレは「穢れ」「気枯れ」
葬儀社のサービスのひとつとして、会葬礼状に清め塩が添えられていることも多いです。食用ではないのでご注意を。 |
また昔はドライアイス等がありませんでしたから亡くなると腐敗がみるみる進行し、衛生面も悪く、悪臭を放っていたことでしょう。「汚いもの」として扱われたのは当然のことかもしれません。また「ケガレ」を漢字で書くと「穢れ」になりますが、言葉の意味は「気枯れ」から来ているともいわれています。つまり人が亡くなって悲しみのあまり「気」が「枯れてしまう」という状態のこと。その「気」を元の状態に戻すために塩というツールを使って元に戻す「清め」が行われていたのかもしれません。
なお浄土真宗の教義では基本的に「清め塩」は使いません。生と死をひとつの世界として捉えているため死はケガレたものではないという考え方からです。
塩はないもので「清め」をする地域も
全国的に昔から清めの行為に塩が使われていたというわけではないようです。地域によっては、米、味噌、大豆、魚、餅、団子、豆腐などを食べることで清めとするところもありました。海沿いでは、海で手や顔を洗い、口をすすぐ地域もあります。あなたは清め塩を使いますか?
昭和40年代ごろから、会葬礼状に清め塩の小袋が添えられるようになりました。宗教によって入っていないこともあります。 |
- 死者をケガレとみるのはやはり抵抗がある。
- 死は恐怖。近づいてほしくないから形として塩を撒きたい。
- なんとなく、昔から両親が行っているからやっぱり使う。
- 身内が亡くなると心が乱れる。自分自身のケジメとして撒いてもいいのでは。
- 「死=縁起でもないこと」として塩で排除するのはどうかと思う。
日本のお葬式は、さまざまな文化や習俗、宗教の影響をうけて現在の形になっています。仏教式の葬儀であってもお釈迦様の時代、各宗派の開祖の時代とは異なった形式で進められています。
祭壇・位牌・年忌法要などは儒教、戒名(法名)・火葬は仏教、黒い喪服は西洋文化の影響を受けています。葬儀と清め塩の関係、その考え方や使用の是非は、時代の流れで変化していくことも考えられます。
清め塩を使うかどうかは考え方次第。習俗・信仰・地域等……さまざまな事情が絡んできますので、結局のところ自分自身で判断することになります。
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