マグナ・カルタ(大憲章)と二院制の誕生

ウェストミンスター寺院西ファサード

ウェストミンスター寺院の西ファサード。この寺院はたびたび増改築されており、現在の姿の基礎はヘンリー3世、ヘンリー7世のふたりが造ったといわれる ©牧哲雄

現在のフランス領にあったノルマンディー公国とイングランドの王が一体化した巨大国家が目の前に誕生してしまったフランスは、次第に両国との対立を深めていく。

イングランド王ジョンはフランスとたびたび戦ったがことごとく破れ、フランスにあった領地をほとんど失ってしまう。この失態と費用の増大に怒った諸侯は王に対し「王といえども法の下にある」ことを文書マグナ・カルタによって確認し、重大な決定には会議の承認が必要であることを了承させた。

続いてヘンリー3世の時代、フランスとの戦争やウェストミンスター寺院の大改修のおかげで諸侯には重税が課せられる。シモン・ド・モンフォールはこれに対して挙兵し勝利して、1265年にはシモン・ド・モンフォール議会を開催、マグナ・カルタを追承認させた。この議会は貴族に加えて都市代表も集められ、貴族と市民代表からなる二院制の原型となる。

続くエドワード1世は同じような模範議会をウェストミンスター宮殿に召集し、対外戦争のために諸侯に協力を求めるようになる。この形は発展し、1544年には貴族院が、1549年には庶民院が誕生する。

権利の請願と清教徒革命

ウェストミンスター宮殿ヴィクトリア・タワー

ウェストミンスター宮殿のヴィクトリア・タワー。ここには権利の章典が収められている ©牧哲雄

ところがフランスとの百年戦争や、イングランド国内の権力闘争であるバラ戦争など、相次ぐ戦争によって諸侯は疲弊し、絶対王政が敷かれると、王の力はかつてないほど強力になり、議会の力は弱まって、諸外国では議会は廃止されていく。

チャールズ1世の時代、議会を無視して戦争を行い、国を疲弊させたことに対して、1628年、庶民院のエドワード・コークを中心に「法の支配」を提唱して「権利の請願」を提出する。これに対してチャールズ1世は翌年、議会を解散してしまう。

スコットランドの反乱をきっかけに、1640年、チャールズ1世は税によって資金を集めるために議会に協力させようと議会召集を行うが、議会はチャールズ1世を厳しく非難する。チャールズ1世は議会への弾圧を強め、反発した議会との内戦へと拡大してしまう。清教徒革命だ。結局クロムウェルの活躍でチャールズ1世は処刑されてしまう。

一時は君主のいない共和制を成功させたクロムウェルだが、議会内で対立が深まると独裁色を強め、まもなくクロムウェルは戦いの最中に病死してしまう。国は行き場を失い、結局チャールズ2世が王政復古に成功する。