世界遺産/ヨーロッパの世界遺産

ウィーン歴史地区/オーストリア(5ページ目)

音楽、絵画、建築、文学、喫茶、食事…ヨーロッパ芸術の中心地であり、アダルトな魅力で旅人を誘う世界遺産「ウィーン歴史地区」。今回はその街の魅力と、ヨーロッパ中世の半分を占めるハプスブルク家の歴史を解説する。

長谷川 大

執筆者:長谷川 大

世界遺産ガイド

ウィーンの歴史3 ハプスブルク家の没落と新生ウィーンの誕生

マヨルカハウスとメダイヨンハウス

手前がオットー・ワーグナー設計のマヨルカハウス、奥がコモ・ローザ設計のメダイヨンハウス。ユーゲントシュティールの集合住宅

王宮ホーフブルクのミヒャエル門

ホーフブルクのミヒャエル門 ©牧哲雄

オーストリアでは皇帝カール6世に後継者ができなかった。神聖ローマ皇帝は男子が継ぐことになっていたが、仕方なく長女マリア・テレジアの夫フランツ1世が皇帝位に就く。これに反対して1740年、フランス、スペイン、プロイセンなどがオーストリア継承戦争を起こす。戦後皇帝位はなんとか認められるが、国は疲弊してしまう。

ドイツではプロイセンが台頭し、これに対抗するためマリア・テレジアは宿敵フランスに接近。マリー・アントワネットをルイ16世に嫁がせるが、1789年のフランス革命でふたりとも処刑されてしまう。1806年にはナポレオンに敗れ、神聖ローマ帝国が消滅。やがてオーストリアはハンガリー帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国を成立させる。

 

自然史博物館

自然史博物館 ©牧哲雄

この帝国を崩壊へと導いたのが第一次世界大戦だ。1914年、皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されるとオーストリアはセルビアに宣戦を布告(サラエボ事件)。これをきっかけに1,000万人もの死者を出す大戦争へと発展した。帝国内では各民族が蜂起し、この影響も受けて敗戦。オーストリアの領土は1/4ほどに分割されてしまう。

1918年にカール1世が退位すると、ハプスブルク家はついに歴史の表舞台から消え去った。

 
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