世界遺産/アジアの世界遺産

クラック・デ・シュバリエ/シリア(2ページ目)

高原の頂にたたずむ可憐な城、クラック・デ・シュバリエ。アラビアのロレンスが「世界でもっともすばらしい城」と評し、『天空の城ラピュタ』のモデルという噂もあるこの城と、カラット・サラディンをご案内する。

長谷川 大

執筆者:長谷川 大

世界遺産ガイド

森と一体化した城砦、カラット・サラディン

カラット・サラディン

カラット・サラディン。1188年にサラディンに落とされ、その後しばらくして放棄されたため、クラック・デ・シュバリエに比べてかなり崩壊が進んでいる ©牧哲雄

その道中はクネクネ道の連続で、まるでペルーの世界遺産マチュピチュのよう。森に囲まれたクネクネ道を登り切ると、今度はヨルダンの世界遺産ペトラのような断崖絶壁の間に造られた入り口が見えてくる。

城はやはり山頂に立ち、周囲の山々を広く眺め渡す。かつてはクラック・デ・シュバリエと同じくキャッスル・ベルトと呼ばれる防衛線の一部として周囲に睨みを効かせていたが、いまでは森の浸食を受けて森に返りつつある。

こちらもやっぱり誰がいったか「天空の城」。特に東の斜面はあまりの断崖に近づくこともできなそうだ。それに岩々に木々や草が絡みつく様はよりラピュタに近いかも。自然に返りつつある廃墟はいつだって人々の心を打つ。

第1回十字軍の遠征

カラット・サラディン

上の写真の右側続き。カラット・サラディンは崩れつつあるが、その様もまた美しい ©牧哲雄

クラック・デ・シュバリエとカラット・サラディンを語るには、十字軍の物語が不可欠だ。

十字軍がはじまる11世紀前後、西アジアからトルコにかけてをイスラム教のセルジューク朝が、エジプトをやはりイスラム教のファーティマ朝が、トルコからバルカン半島にかけてをキリスト教ギリシア正教会のビザンツ帝国(東ローマ帝国)が、西ヨーロッパはキリスト教カトリックのローマ教皇を冠する神聖ローマ帝国や西フランク王国などが支配していた。

1095年、セルジューク朝の侵略を受けたビザンツ皇帝アレクシオス1世がローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼。兵士を借りようと思っての依頼だったが、ウルバヌス2世はクレルモン公会議で聖地エルサレムの奪回を呼びかけ、参加者には免罪が与えられると宣言した。

1096年、第1回十字軍はトルコのアナトリア高原を横断して西アジアに入り、途中の街で掠奪と虐殺を繰り返しながら進軍し、1099年、ついにエルサレムを奪回する。エルサレムを落とした十字軍は、城内のイスラム教徒はもちろん、ユダヤ教徒や正教会の人々をも無差別に虐殺・掠奪、エルサレム旧市街は文字通り血の海に埋もれたという。
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