夫の見識
4人で飲みながら |
「まあ、たしかに横井女史の行動には不審な点がある。だが、こちらから突っついてもいいことはないだろう。ここは黙って向こうの次の行動を待つしかない」
「先輩、それじゃ、女史の行動の意味は今は知る必要がないってことですか? すでに十分おかしいですよ。星野さんは何も気づいていないとしても。向こうが次にどう出るかを待つにしても、意味は知っておくべきじゃないですかね」
「だから、その意味も待つしかないだろう」
「あなたを困らせることはしているわけよね。間違いなく。しかも、星野さんと会わせようなんておかしな計画はよほどの魂胆があるとしか思えない。こちらから行動はしないまでも、推測というか考えておく必要はあると思うわ」
「まあ、あくまでも推測の域は出ないだろう。しかし、少なくとも3月14日のホワイトデーまでは何もする必要はない。お返しはキミがいつものように用意してくれればいいし、それを渡すだけだ」
「星野さんは宅配便で送ってきたわけだけど?」
「その住所は星野さんの住所なのか分からない。それを調べるのも好ましくない。あちらの社に行く用事がある者がいれば託せばいいだろう。それで義理は果たせる」
「つまり、先輩がもらったネクタイは宙に浮くということですね」
「まあ、もし直接、横井さんから渡されたとしてもそれを身につけることはないんだし、お返しは他の人と同じにするだけだ。なにしろ横井さんからは何ももらっていないというか、部署の女子たち一同からのだけだからね」
「ネクタイはリサイクルショップにでも持って行こうかしら」
「うん。それでもいいし、誰かもらってくれそうな人にあげてもいい。星野さんに返すのはおかしいしね。まあ、何かついでがあれば誰かに譲ろう」
「だけど、怨念はありそうですよね」
詩織がちょっと脅かすようなことを言い出した。
「うん。僕もそう思うな。横井女子は先輩のことをすごく好きだったわけだから。ネクタイを贈ったのは彼女の本音というか本心だと思う」
「でしょ? 好きでも正直に伝えられない。他人の名前でもいいからネクタイを贈って、自分の気持ちを伝えたかった。ただ面と向かって渡すより、暗いというか、ちょっと怖いですよね」
「それと、先輩、横井女史が最近は冷たくなったって言ってましたよね? それって心変わりなんですかね」
「オレには分からんよ。仕事としてでしか接していないし、いちいち考えてもいない」
「ねえ、あなたの言うとおり、何もしないのが賢明だと思う。それで次に何をしてくるか待ちましょうよ。もしかしたら、何もないかもしれないし」
「うん」
「本当はどう考えても何かありそうだけど。とにかく何も知らないふりをして。でも、準備は怠りなく、ね。少しでもおかしい言動があったら、注意して」
「そうだな。もしかしたら、ネクタイを贈ったという行動だけで済むことかもしれないし。北村君も気をつけていてくれると助かるな」
「もちろん、僕も注意しておきますよ」
「あ、私も。受付の人たちからさりげなく情報を探っておきます」
結局、何もしないことになった。たしかにこちらから何かをするというのもおかしな話で、勢い余った北村たちがメールの返信をしようだの言ったことに対して、春彦は大人の冷静さで判断した。麻季子は夫の見識にあらためて頼もしさを感じていた。横井女史の思惑など、当の本人にしか分かりえないのだ。ただ、その場にいた誰もが、このままでは済まないのではないかと思っていた。
春彦はメールは返信しないまま、放置することにして、表向きは一見何もないように数週間の時が過ぎた。メールはそれきり送られてこなかった。横井文恵も表面的には変わりなく過ごしていた。ホワイトデーを数日後に控えたある日、北村が社内で春彦に仕事のことで相談があると言って空いていた会議室に2人で入った。