「礼儀正しく、不要物を棄てる」
「礼儀正しく、不要物を棄てる」
この一文があったのはおそうじ本ではありません。
が、目から鱗、とはまさにこのことと思いました。すさまじいインスピレーションを得てしまいました。
「礼儀正しく、不要物を棄てる」。
これを言い換えれば「弔う」ということだそうです。
(『疲れすぎて眠れぬ夜のために』内田 樹・著/角川文庫 所収「どんな制度にも賞味期限がある」 ※文中では古い政治的制度の改革について述べられている文脈で使用。)
「もう要らない、邪魔だもの」
と、身の回りのあらゆる不要物……流行遅れの衣類、読み捨ての本・雑誌、趣味に合わない引き出物、エトセトラ、エトセトラに、唾棄し、イライラと鬼のような形相で棄てまくる自分。
「ありがとう。お疲れ様でした」
と、身の回りのあらゆる不要物……(詳細略)、エトセトラ、エトセトラに、微笑んで、心の中で花を添えて、ゴミ袋の中にさくさく棄てていく自分。
やっている『棄てる』の行為は同じですが、イメージするだけでも、ココロの平穏さに差が出ると思いませんか?
弔うか、弔わないか。
別に焼き塩を撒けとか、お札を貼れとかいうわけじゃない。
ただ、棄てている自分のココロの中にモノ(不要物)への感謝とねぎらいを含めるか否かという、ただそれだけの違いではあります。
でもモノの身に立って想像するに、唾棄されながら棄てられるのと、感謝されながら棄てられるのとではずいぶんと「気分」が違うような気がします。不要になってしまった事実は仕方が無いとしても……きっと感謝されながら祟ることはできないと思う。
「ありがとう。お疲れ様でした」
と頭を下げられたら、
「こちらこそ。お世話になりました」
って、言いたくなるのが「人の好い」私たちのさがではありませんか。
「礼儀正しく、不要物を棄てる」なんて、所詮“方便”に過ぎません。でも一度でいいですから、だまされたと思って試してみてください。
そしてその感想を、ぜひ私(ガイド藤原)に教えてくださいね。
役に立ったか、立たなかったか。
気持ちよく棄てられたか、否か。
こんな文章を書く仕事をしている私ですが、駆け出しの住宅営業だったころ買った、高価なスーツを10年以上袖を通さないまま、ずっと処分できずにクローゼットの中にしまい込んでいました。
サイズも2サイズ違うので、着ようにももう、着られないのにです。「思い入れ」だけで、でもその思い入れもポジティヴなそれではなく、単に「価格が惜しい」といった理由で、眺めているだけで幸せな気持ちになる類のものではありませんでした。
そのスーツを、まさにこの記事を書いたその足で、売りに行きます。近所のリサイクルショップへ。
きっと重い思いをした手間とは見合わない値段がつくことでしょう。
その徒労感が見越せた分だけ、売りに行くのがずるずる遅れてしまっていました。
「冬物衣類のうっとうしい山」に積んで2週間、ようやくその不要服らの山への「思い」が、鬱陶しい暑苦しいといっただけのものから、感謝のそれに変えられました。
もったいなくも、なくなりました。
今度は弔えると思います。