ローマの歴史1. ローマ帝国の成立
美しい彫刻とレリーフで覆われたコンスタンティヌスの凱旋門。有名なパリのエトワール凱旋門はこの凱旋門を模している。後ろに見えるのはコロッセオ
フォロ・ロマーノ。左は203年にセプティミウス・セウェルスがパルティアに対する戦勝を記念して建設したセプティミウス・セウェルスの凱旋門
ローマの重装歩兵はきわめて強力で、紀元前3世紀にはイタリア半島を統一。シチリア島から北アフリカに進出し、地中海の海運を牛耳っていたフェニキア人のカルタゴを打ち破った(ポエニ戦争)。紀元前168年にはギリシア(アンティゴノス朝マケドニア)に勝利して南ヨーロッパを統一し(ピュドナの戦い)、西アジア、北アフリカ、西ヨーロッパ北部に進出して各地に植民市を建設した。
アウレリアヌスの城壁の一部で、16世紀にミケランジェロが設計し直したピア門。ローマにはこのようなローマ時代とルネサンス時代のコラボ作品も少なくない
「内乱の世紀」と呼ばれた紀元前1世紀、貴族たちはそれぞれ軍を保有して勢力争いに明け暮れていた。これをほぼ統一し、ローマを中心に独裁政権を築いたのがカエサル(シーザー)だ。カエサルはまもなく暗殺されてふたたび勢力争いが起こるが、彼の養子であるオクタウィアヌスが再統一を実現。アウグストゥス(尊厳者)の称号を得て、紀元前27年に皇帝に就任した。これが帝政ローマ、つまりローマ帝国のはじまりだ。
ローマの歴史2. 帝国の滅亡とルネサンス
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、アプス(内陣)上部の見事なモザイク。もともとはコンスタンティヌスが寄進した教会堂だが、17世紀にバロック様式に建て替えられた
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂のファサード。かつて教皇はこの教会を含むラテラノ宮殿に住んでいた。現在は世界遺産「バチカン市国」のバチカン宮殿の在住だ
分割統治を終わらせ、帝国を再統一したのが皇帝コンスタンティヌスだ。それまでキリスト教はしばしば弾圧されてきたが、貧困層に浸透したキリスト教の拡大を防げないと見て、313年に一転してキリスト教を公認した(ミラノ勅令)。380年にはテオドシウス1世がキリスト教を国教化し、392年にはキリスト教以外の信仰が禁止された。これ以降、ヨーロッパ全土にキリスト教が広がっていく。
フォロ・ロマーノ近くに建つヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂。1861年にイタリア統一を実現し、イタリア国王に就いたヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を称えて1911年に建設された
こうしてローマは急速に衰退するが、バチカンはローマ=カトリックの盟主としてあり続けた。その最高指導者であるローマ教皇(法王)が13~16世紀に「教皇は太陽、皇帝は月」と呼ばれるほど絶大な権力を握ると、ローマにはミケランジェロやラファエロといった芸術家が招集されてルネサンスの最盛期を迎えた。しかしながら教皇の力は徐々に衰え、ローマは1870年にイタリア王国の首都になるまで一地方として落ち着いた。