世界遺産/ヨーロッパの世界遺産

ローマ歴史地区/イタリア・バチカン(2ページ目)

地中海沿岸部をグルリと征服して空前の大帝国を築いたローマ帝国。首都ローマは世界でもっとも豊かな都市となり、コロッセオ、パンテオン、カラカラ浴場といった奇跡的な建物が次々と建設された。それから千年以上を経た15~16世紀にはルネサンスの中心となり、芸術の都として蘇る。今回はイタリア/バチカン共通の世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂」を紹介する。

長谷川 大

執筆者:長谷川 大

世界遺産ガイド

ローマの歴史1. ローマ帝国の成立

コンスタンティヌスの凱旋門

美しい彫刻とレリーフで覆われたコンスタンティヌスの凱旋門。有名なパリのエトワール凱旋門はこの凱旋門を模している。後ろに見えるのはコロッセオ

ローマにはさまざまな時代の遺跡や建物が存在するが、ローマ歴史地区を理解するうえで特に重要なのがローマ帝国とルネサンスの時代だ。このふたつの時代について簡単に解説しておこう。

セプティミウス・セウェルスの凱旋門

フォロ・ロマーノ。左は203年にセプティミウス・セウェルスがパルティアに対する戦勝を記念して建設したセプティミウス・セウェルスの凱旋門

伝説によると、軍神マルス(ギリシア神アレス)の子として生まれたロムルスとレムスの兄弟はオオカミに育てられ、その後兄弟間の闘争を勝ち抜いたロムルスがテベレ川の畔に街を造る。これがロムルスの都、ローマだ。そして8世紀にラテン人の一派がやってきて、都市国家ローマを築く。

ローマの重装歩兵はきわめて強力で、紀元前3世紀にはイタリア半島を統一。シチリア島から北アフリカに進出し、地中海の海運を牛耳っていたフェニキア人のカルタゴを打ち破った(ポエニ戦争)。紀元前168年にはギリシア(アンティゴノス朝マケドニア)に勝利して南ヨーロッパを統一し(ピュドナの戦い)、西アジア、北アフリカ、西ヨーロッパ北部に進出して各地に植民市を建設した。

 

ピア門

アウレリアヌスの城壁の一部で、16世紀にミケランジェロが設計し直したピア門。ローマにはこのようなローマ時代とルネサンス時代のコラボ作品も少なくない

属州からローマにさまざまな資源と奴隷が流入し、ローマは世界でもっとも豊かな都市へと発展した。奴隷が労働を担当する一方で多くの農民や労働者が職を失ったが、失業者たちに「パンと見世物」を与えて養えるほど富があふれていたという。闘技場や劇場・公共浴場は見世物の一環として築かれたもので、福祉政策の一部だった。

「内乱の世紀」と呼ばれた紀元前1世紀、貴族たちはそれぞれ軍を保有して勢力争いに明け暮れていた。これをほぼ統一し、ローマを中心に独裁政権を築いたのがカエサル(シーザー)だ。カエサルはまもなく暗殺されてふたたび勢力争いが起こるが、彼の養子であるオクタウィアヌスが再統一を実現。アウグストゥス(尊厳者)の称号を得て、紀元前27年に皇帝に就任した。これが帝政ローマ、つまりローマ帝国のはじまりだ。

 

ローマの歴史2. 帝国の滅亡とルネサンス

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂のモザイク

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、アプス(内陣)上部の見事なモザイク。もともとはコンスタンティヌスが寄進した教会堂だが、17世紀にバロック様式に建て替えられた

アウグストゥスが皇帝に就いて以降の約200年間は「ローマの平和=パックス・ロマーナ」と呼ばれ、ローマの強力な軍事力によって帝国内で大きな内乱や戦争が起きなかった。この時代、世界中に水道橋や浴場・闘技場・劇場を造り、ローマ風の先進都市を建設した。スペインのメリダ、フランスのアルル、イギリスのバース、リビアのレプティス・マグナなど、ローマ帝国が関係した世界遺産は軽く50を超える。

サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂のファサード

サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂のファサード。かつて教皇はこの教会を含むラテラノ宮殿に住んでいた。現在は世界遺産「バチカン市国」のバチカン宮殿の在住だ

元老院(皇帝の諮問機関)が優秀な人間を皇帝に据えた1~2世紀の五賢帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎え、特に最大版図を築いたトラヤヌスと次のハドリアヌスの時代に頂点を迎えた。このあと帝国の権力は次第に分散し、軍人が皇帝を名乗った軍人皇帝の時代、帝国を4分割して統治したテトラルキアの時代を経て徐々に衰退した。

分割統治を終わらせ、帝国を再統一したのが皇帝コンスタンティヌスだ。それまでキリスト教はしばしば弾圧されてきたが、貧困層に浸透したキリスト教の拡大を防げないと見て、313年に一転してキリスト教を公認した(ミラノ勅令)。380年にはテオドシウス1世がキリスト教を国教化し、392年にはキリスト教以外の信仰が禁止された。これ以降、ヨーロッパ全土にキリスト教が広がっていく。

 

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂

フォロ・ロマーノ近くに建つヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂。1861年にイタリア統一を実現し、イタリア国王に就いたヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を称えて1911年に建設された

395年、テオドシウス1世はふたりの息子に帝国を分け与え、ミラノ(のちにラヴェンナ)を首都とする西ローマ帝国と、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を首都とする東ローマ帝国に分裂。西ローマ帝国はゲルマン人の侵入により476年に滅亡した。

こうしてローマは急速に衰退するが、バチカンはローマ=カトリックの盟主としてあり続けた。その最高指導者であるローマ教皇(法王)が13~16世紀に「教皇は太陽、皇帝は月」と呼ばれるほど絶大な権力を握ると、ローマにはミケランジェロやラファエロといった芸術家が招集されてルネサンスの最盛期を迎えた。しかしながら教皇の力は徐々に衰え、ローマは1870年にイタリア王国の首都になるまで一地方として落ち着いた。

 
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