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ダンサーズ・ヒストリー ABT 相原舞(4ページ目)

“世界一ゴージャスなバレエ団”、アメリカン・バレエ・シアターで活躍する相原舞さん。同団へ入団が許された日本人は3人目と、狭き門を突破して正団員入りを叶えた新進気鋭のダンサーです。相原さんが歩んできたバレリーナへの道程とは? ここでは、相原さんのダンサーズ・ヒストリーをご紹介します!

小野寺 悦子

執筆者:小野寺 悦子

バレエガイド


ローザンヌで掴んだ海外留学

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2010年ローザンヌ国際バレエコンクール(スイス)

復帰一年後、名古屋のジャパンバレエコンペティションへの出場を皮切りに、レッスンとコンクールの日々を再開する。高校3年生になるとローザンヌ国際バレエコンクールに出場。見事スカラーを獲得している。
「ローザンヌ国際バレエコンクールは小さいころからテレビで見ていたので、いつか出たいって憧れてたんです。ワークショップからはじまって、現地に一週間くらい滞在して審査を受けました。留学するのが夢だったので、スカラーをもらったときは嬉しかったですね」

いくつか提示されたスカラーのなかから、相原さんが選んだのはドイツのジョン・クランコ・バレエスクール。高校卒業を待ち、ドイツへ渡った。
「やっぱり高校は卒業したかった。みんなは15歳くらいで留学してるので、周りの子たちに比べたら私は本当に遅い。いつもスロー、スローな感じです(笑)」

留学期間は2年間。両親や先生と離れ、初めて経験する海外生活だ。寮で出る食事は当然ドイツ料理。
「じゃがいもは毎日出ます。だからもうじゃがいもが嫌いになっちゃった(笑)。やっぱり飽きちゃいますね。“日本食が食べたい!”って、ずっと思ってました」

とはいえ、ホームシックになっている余裕はなかったという。
「まず大変だったのがドイツ語の授業。ドイツ語のクラスはもちろん、解剖学、音楽史、バレエ史もドイツ語と英語で授業を受けなきゃいけないんです。やらなければいけないことが多すぎて、バレエよりもテスト勉強がとにかく大変でした」

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2010年ローザンヌ国際バレエコンクール(スイス)

バレエのクラスも独特だった。当初は一時間半のレッスン中、ひたすらバーレッスンの繰り返しだったという。
「フロアもなく本当にバーだけ。できなかったらもう一回繰り返し、繰り返し。それにロシア式なので、アンデオール、アンデオールってひたすら注意されました。でも今考えると基礎をしっかり身に付けることができたので、すごく良かったと思います」

ジョン・クランコ・バレエスクール卒業後、オーディションに合格し、やはりドイツのドレスデン・バレエに入団する。ただし、正団員の椅子は空きが無く、一年間のみの期間限定、研修生としての契約だ。もうひとつ、クロアチアのザグレブ国立バレエ劇場からコール・ド・バレエでの入団を許可されていたが、より治安や環境の良いドイツに残ることに決めた。


思いがけないビッグチャンスに……。

ドレスデン・バレエでは、『くるみ割り人形』、『ジゼル』、『スワンレイク』、『ラ・バヤデール』、フォーサイスのコンテンポラリー作品などに出演。踊ることで初めてギャランティを得た。プロとしての第一歩だ。
「ただ一年後にはカンパニーを出なければいけなかったので、ドレスデン在籍中からドイツ内やヨーロッパのいろいろな国でオーディションを受けました。いくつか受かったところもありましたけど……」

そんななか、大きな転機が訪れる。カンパニーにレッスンコーチとして来ていたシンシア・ハーヴェイ(元ABTプリンシパル)に、「ABTが小柄なダンサーを探してるから受けてみない?」と声を掛けられたのだ。ABTは現在定期的なオープンオーディションを行っておらず、外部から入団するには原則プライベートオーディションのみ。それも、誰もが受けられるものではない。願ってもないビッグチャンスと言えよう。
「“絶対に行きます!”って即答しました」


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