「水曜どうでしょう」は“自分たちのやりたいこと”が出せる場
――ちなみにカフェの客層はどんな感じなんでしょうか?
嬉野 結局ね~、だんだんとお客が常連化してくるんですよね。ぼくがカフェをやり始めたのはね、まだ話したこともない人と話をする場を求めてのことなんだからと、ここは作業場じゃないんだと、ここでパソコン開いて自分の仕事して長居するんじゃない! と、再三、排除するんですが、居心地が良いのか来るんですよね~。こっちは深い思想があってやってるのにさ~(笑)
――その思想については、「ひらあやまり」の中でも詳しく述べられていますから、ぜひその人たちにも読んでいただきたいですね。
嬉野 私もサラリーマンですから、腑に落ちないようなこともあるわけですよ。でも、腑に落ちないことって考え過ぎると答えにたどり着けないだけに頭の中が若干重たくなってくるんですが……誰かのためにコーヒーを淹れている間は無心になれる。結果、ストレスの無い自分になれるんですね。
――そういったサラリーマン的なストレスから、ある意味いちばんかけ離れてるのが「水曜どうでしょう」かもしれません。
嬉野 あの番組はね、「こんなことやったら面白いよね」っていう自分たちの思いつきを作品にしてるわけですが、結果的にその思いつきに共感して多くのお客がついて来てくれた。つまり、ぼくらが、こんな事をやったら面白いんじゃないのと、思いついた事を、ぼくらのやりたいようにやってたら、同じようにそれを面白いと思って支持してくれる他人がいるんだってことに気がつけたってことなんです。
世間の人たちが何を面白いと思うのかは、リサーチしなくても、その答えは自分たちの中に見つければいいっていうか、自分たちが本当に面白いと思えていたら、同じようにそれを面白いと感じてついてきてくれる人がきっといる、そんな実感をね、あの番組を通してぼくらは経験的に得ることができた。「水曜どうでしょう」っていう番組のおかげで、ぼくらはいま、自分達のまんまを出せる場を獲得できているんだと思うんですよね。それが何より幸福なことですよね。
「ラッコが粒!!」でも面白くできる理由
――自分たちが面白いと思うことを素直に出した「水曜どうでしょう」ですが、スタート当初は面白さが視聴者に伝わるかどうか未知数だったのでは。嬉野 そうですね。でも、ぼくらが面白いと思うのに、お客が面白いと思わないのなら、そのときはもう時代とぼくらがマッチしなくなったと思うしかないですよね。でも一方 でね、見てる人が面白いと思えないのは面白いと思っている自分たちの目線までお客を誘導しきれていないからかもしれない。だったら同じ目線に立てるところまで作品の中で事情を説明して作りこんでいこうという展開になるじゃないですか。 そんなことでやってきましたよね。
――確かに。それが視聴者へのコミュニケーションにもなってますね。
嬉野 でも我々にできるのは、そこらへんの工夫までなのかなと。「流行りのものだからやる」みたいな感覚は、自分達の中にはないですから。
――それをやらないからこその「どうでしょう」なんだと思います。
嬉野 例えば1人の男がね「いや、いまね、アメリカに行ったら絶対おもしろいんだよ!」と、たとえば熱く主張する。そんなら行くかってことになる。でも、実際行ってみたら、言ってたほど面白くはない(笑)。でも、そんなときはね「おもしろい、おもしろいって言ってたわりには、ひとっつもおもしろくないな」って弾劾すればね、「そうね~、いや、でも」とその男は必死で弁解しようとしますよね。ですからはるばるアメリカまで行ってね、結局そのあたりから可笑しみが生まれる可能性はありますよね(笑)。だから最初に責任の所在さえはっきりしていれば、可笑しみはどっかで生みだせるってことはありますよね。最初に提案した男が大いに困ればいい(笑)。そこま で含めて面白さだからっていう確証は、ありますよね。
――その提案した男(おそらく藤村氏)のことを、視聴者が深く知っていれば知っているほど、番組は面白くなる訳ですね。やたらと出演者同士でもめてる番組ですが、熱烈なファンほどそこにワクワクしてしまいます。
嬉野 ぼくらは、番組を面白くすることに必死だったと思います。それでも全員が自分の気持ちに一切ウソはつかないですね。
――それは「なんでこんな所へ連れて来たんだ!」と言った、ネガティブな気持ちも含めてウソがないんですね。
嬉野 アラスカで氷河を見に行った時も、藤村くんが「嬉野くん!ラッコですよ!」って双眼鏡でようやく発見したすっごい遠くに浮いてるラッコを見て盛り上げようとするんだけど、こっちはいくら望遠で寄ってもラッコには見えない。「ラッコ、粒にしか見えないな~」と言うと「つぶって言うな」ってぐあいに大揉めになる、そんな状況でもお客さんには共感できているから笑えるんでしょうね。