華僑・華人の誇り、「開平の望楼群と村落」
自力村、銘石楼屋上からの眺め。中央は鉄筋コンクリート造・5階建ての雲幻楼で、1921年にマレーシアから帰国した華僑・方文嫻氏が建設した。左が養閑別荘、右が居安楼と安廬
開平に残る望楼は現存するものだけで1833棟を数えるが、そのうち三門里、自力村、馬降龍、錦江里の4村20棟が世界遺産に登録されている。今回はそんな中国の世界遺産「開平の望楼群と村落」を紹介する。
世界的に珍しい歴史的高層建築
錦江里の望楼群。左は1918年に避難所として建てられた5階建ての錦江楼。右は1923年竣工で、香港商人の黄壁秀氏が建てた9階建ての瑞石楼。瑞石楼は「開平望楼第一楼」と呼ばれ、もっとも美しい望楼とされている
黄一族29戸が集まって築いた馬降龍、永安村の天禄楼。鉄筋コンクリート造の8階建てで、1925年に竣工した
そして上や右の写真だ。田畑や竹林から突き出す高層建築、1階より最上階の方が広い形状、西洋風と中華風の折衷的なデザイン等々、ここでしか見られない特徴が詰め込まれている。私はこれまで70か国以上を訪ねているが、こんな建物は他で見たことがない。
こうした建物を中国語でディアオ・ロウ(石偏に周の字+樓)という。中国でもほぼ開平近郊でしか見られない楼閣建築で、日本では望楼あるいは華僑洋館と呼ばれている。
開平の歴史と望楼の誕生
馬降龍の永安村。左端の望楼が保安楼、右端が天禄楼。村の東西に保安楼と天禄楼を設けて見張り台兼城砦とし、その間に家々を並べることで村を守った
錦江里、昇峰楼から見た錦江楼(手前)と瑞石楼(奥)。手前の柱にはギリシアのコリント式柱頭が見られる
台湾を鎮圧すると、清は遷界令を撤回。もとの住人たち=本地人は沿岸部に帰還するが、人がいなくなった沿岸部には新たに漢民族が流れ込んでおり、こうした人々はよそ者やお客さんを意味する客家(はっか)と呼ばれて本地人と対立した。
立圓、毓培別荘。立圓園主・謝維立が第二の妻・譚玉英のために建てた望楼別荘だが、彼女は結婚した翌年、難産のため他界してしまった
彼らのような外国人労働者はクーリー(苦力)と呼ばれ、特にアメリカでは鉱山開発(ゴールドラッシュ)や大陸横断鉄道の建設に従事してアメリカの発展に貢献した。
ところが19世紀末以降、アメリカやカナダで徐々に中国人排斥運動=排華政策が浸透し、20世紀に入ると華人(外国籍を持つ漢民族)や華僑(中国籍を持つ漢民族)たちが続々と中国南部に帰還する。こうして開平に戻った華人や華僑は外国で見た西洋風の望楼を建てて、故郷に錦を飾った。