再び問題が起きる恐れ

2つの五輪問題を招いた「ビジョンの欠如」

2つの五輪問題を招いた「ビジョンの欠如」

今年になって発生した五輪を巡る2つの問題、新国立競技場五輪エンブレム。どちらも国民の関心を集め、まるで一億総評論家状態と呼べるほどの議論となった。

普段は政治に関心のない人でさえこれらの問題を語るのは、夢のイベントにケチがつけられたからというだけではない。重要な物事が密室で決められ、しかもそうして出された結論が国民の期待を大幅に裏切るものだったからだ。

新国立競技場と五輪エンブレムはすでに様々な形で問題点が指摘され、結局どちらも白紙撤回となった。これにより、あたかも問題は収束に向かうかのような印象となっている。

ところが同じ問題が再び起きる恐れがある。なぜなら「2つの問題を招いた本当の原因」が全く解決していないからだ。


未だ「ビジョン」が決まらない2020年東京五輪

その本当の原因とは、2020年東京五輪がどんな大会であるべきかという「理念」「ビジョン」が抜け落ちていることである。

五輪はスポーツの一大イベントであるが、ただ単に大きなスポーツ大会というわけではない。4年に一度、しかも開催する国や地域にとっては何十年に一度の貴重な機会を文化や社会の発展にどう生かすかという「理念」「ビジョン」が先にあるはずだ。

前回の東京五輪は戦後からの復興だった。そして今回の東京五輪は、招致活動の段階は「ニッポン復活のためのオリンピック」「ニッポン復活のためのパラリンピック」をテーマとし、東日本大震災からの復興を目指す日本国民に明確な目標と団結をもたらすことを理念として掲げていた。

それは
「今、ニッポンにはこの夢の力が必要だ」

というスローガンに謳われ、東日本大震災からの復興を期す大会と位置づけられていた。

ところが、いざ招致に成功するとその方針は失われ、迷走を始めた。その中で新国立競技場および五輪エンブレムの問題が発生した。


理念なき迷走が2つの問題を招いた

2つの問題には共通点がある。何のために作るかという「本質」が置き去りにされていた点だ。

新国立競技場は言うまでもなく五輪競技を行う場所だ。よって競技場としての機能や性能が最優先されることは言うまでもない。

ところが、あろうことか組織委員会により、競技場としての機能以外の点ばかりに比重が置かれ、挙げ句の果てには、新国立の建設費捻出のため、選手の強化費を削るという、耳を疑うような案まで出された。

五輪はスポーツを競う場であり、その主人公である選手の育成費を削って施設に回すなどという本末転倒な話が本気で検討されたのだ。


理念を絵にしたものがエンブレムのはず

五輪エンブレムが取り下げられ、一からやり直しとなった件も同様だ。

意外に思われるかもしれないが、あのエンブレムが模倣か否かは実は問題の本質ではない本当の問題は、あのデザインが模倣か否かというテクニカルな面ではなく、もっと深い、根底の部分にある。それは、あのエンブレムが大会のビジョンも理念もない状況で単なるデザイン性だけで作成された点だ。

五輪のエンブレムとは本来、その大会が描く「理念」「ビジョン」を絵にしたものである。その大会によって実現しようとする文化的、社会的な目的を、年齢も国も問わずわかりやすく伝えるためのアイコン、象徴としての記号がエンブレムである。

大会にはそれぞれスローガンがある。近いものを挙げてみよう。
2008年北京は「一つの世界、一つの夢」
2010年バンクーバーは「輝く心と共に」
2012年ロンドンは「次世代に息吹を」
そして2014年ソチは「ホットでクール みんなの大会」だ。
大会エンブレムもこれらと世界観を共有するものであった。

ところが2020年東京五輪では、どんな大会にするかという肝腎のビジョンがない。招致活動で使用された「今、ニッポンにはこの夢の力が必要だ」も、まるで無かったかのように忘れられている。

そんな中で決定されたのが、アルファベットの「T」をデザインしたエンブレムだった。理由は「東京のT」だというが、そのコンセプトに首を傾げた人も多いはずだ。なぜなら「東京のT」という発想そのものがスポーツの祭典としての五輪とは全く関係がないからだ。

ただしその責任をデザイナー一人に向けるのは酷であろう。なぜならそれを誘発したのも、五輪としての「ビジョン」が欠落しているからである。

五輪組織委員会は新国立競技場についても五輪エンブレムについても一からのやり直しを決め、新たに募集を行うが、未だ「ビジョンがない」という根本的な問題を解決しない限り、同様の問題は再び起こる可能性は消えない。
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