大学在学中に作曲の才能を見込まれ、ポップス・ライターに

『ジキル&ハイド』写真提供:東宝演劇部

『ジキル&ハイド』写真提供:東宝演劇部

――あなたはNYはハーレムの出身とのことですが、音楽一家だったのですか?

「いや、まったく。母はちょっとピアノを弾くけれど、音楽家というわけでは全然なかった」

――では音楽との出会いは……。

「覚えていないけど、気が付いたらそこに音楽があった。一つのジャンルに限らず、いろいろな音楽に貪欲だったね。クラシックならチャイコフスキーとか、ラフマニノフとかドビュッシーに憧れたし、スティービー・ワンダーとかマーヴィン・ゲイのようなブラックミュージック、ドゥービー・ブラザーズも好きだった。

15歳の頃から作曲をするようになったけど、それは僕にとってはみんなが釣りをするような感覚で、ラッキーな日にはピアノの前に座ると大きな魚が釣れたり(素晴らしい曲が書けたり)、大漁だったり(たくさん書けたり)。その正反対の日ももちろんある」

――劇場音楽に興味を持ったのは?

「南カリフォルニアで大学生だったとき、ジョン・ハウズマンという有名な俳優がそこの演劇部門を統括していて、僕は歴史の生徒だったにもかかわらずなぜか彼と親しくなったんだ。彼は僕に大学で劇場音楽を書かせてくれた上に、ショーを上演させてくれた。

ちょうど当時のポップス業界の中心地はLAだったこともあって、たまたま業界人が大学での僕のショーを観に来て“ポップスを書かないか”と誘ってくれたのをきっかけに、在学中にポップソングを書き始めた。自分で売り込むことなく、誰かに“発見”してもらえた点で僕はとてもラッキーだったと思うよ。

そして1988年に素晴らしいことが起こったんだ。リンダ・エダーという歌手に出会い、恋に落ちた。最終的には結婚もしたよ(笑)。そしてレスリー・ブリッカスというミュージカル作家に出会い、彼は僕の師匠、父親のような存在になった。またグレゴリー・ボーイという、テキサスで劇場を運営する人物に出会った。これらの出会いの結果、僕はリンダのために曲を書き、レズリーと『ジキル&ハイド』を書き、そしてグレゴリーがそれを彼の劇場で上演してくれることになったんだ」
『アリス・イン・ワンダーランド』(C) ホリプロ

『アリス・イン・ワンダーランド』(C) ホリプロ

――ずっと好調だったのですか?

「最初のレコーディングにこぎつけるまでにはたくさんの曲がボツになったし(笑)、プロとしてデビューしたのが81年だから……もう34年間か、これだけ長くやっているから、その間にはいい時期もあれば悪い時期もあった。でもそれでいいんだ。それがあったからこそ、今こうしてここにいる。今こうして楽しく世界を飛び回っていられるのはその(経験の)おかげだと思うんだ」

――早くに才能が枯渇してしまう作曲家もいるかと思いますが、長く活躍する秘訣は?

「僕はオープンで、“聴く”人間なんだ。一つの作品に満足してしまうと“聴く”ということや、新たな挑戦をやめてしまう人もいるけど、僕には29歳と15歳の息子がいて、“パパ、これとこれが新しいよ、聴きなよ”と常に言ってくれる人が周りにいるんだ。それで若さを保てるし、チャレンジし続けることができる。キャリアの初期には自分より年長の素晴らしいミュージシャンたちに囲まれていて、彼らが僕の先生だったけれど、今では自分より年下のミュージシャンたちが僕の先生なんだ」
『ボニー&クライド』(C)ホリプロ

『ボニー&クライド』(C)ホリプロ

――“先生”が年長から年下に変わったターニングポイントはいつごろでしたか?

「90年代かな。劇場音楽だと作曲家は一度スタイルを確立すればそのままだけど、ポップスにはいろいろなトレンドがあってどんどん変わっていくから、自分も変わっていくことが求められるんだ。レコード会社から“今日はこのカントリー歌手のために書いて”“次はこのダンサーのために”“今日はこのロックアーティストのために書いて”と日々リクエストを受けてきたので、ジュリー・アンドリュースのためにも、ホイットニー・ヒューストンのためにも書ける人生を切り開けたことをとても幸せに思っている。その結果、『南北戦争』はカントリー的、『ボニー&クライド』はジャズ風、『ジキル&ハイド』『ドラキュラ』はビッグ・ゴシック・ショー、今回の『デスノートThe Musical』では“今”のポップス、と多彩な劇場音楽も書けるようになったんだ」

*次頁ではフランクさんの音楽の特徴に迫ります。パワフルであくの強い曲がお得意な理由はなんと……!*