「ある」を問うハイデガーと「ない」将棋
その書はガイドにピッタリのタイトルだった。いわく『この一冊で哲学がわかる!(白鳥春彦=著)』である。 この書はソフィーとはまったく逆。なんとハイデガーのために項を設け、20ページ以上をさいている。言葉も平易でガイド向き。なんともありがたい書である。何度も読み返し、見えてきたことがある。ハイデガーは「ある」を問い続けた哲学者だったということだ。「ある」つまり「存在する」ということはどういうことなのか。ここに疑問を持ったのがハイデガーだった。ガイドには、この疑問自体が疑問だが、これがハイデガーである。彼以前には「ある」という言葉から発した哲学の例としてデカルトの「我思う、ゆえに我あり」がある。そして、ハイデガーはこの言葉を批判する。このデカルト発言は「我思う、ゆえに、我ありと思う我あり、と思う我あり……」と永遠に続くだけではないかと。ここまでくると、ガイドの手には負えない。しかし、一つだけわかることがあった。
将棋とは「ある」ではなく、「ない」を最終目標とする競技なのだ。これは過去記事「3月のライオンはマンガの姿をしたポエムである」にも書いたことなので、ぜひお読みいただきたい。厳密に言えば将棋に勝ちはない。詰みの状態、つまり、王将の行き場が無くなった時に「ありません」の一言によって負けが成立し、終了する競技なのである。その後に勝ちが姿を現す不思議な特質を持っている。いわば「ない=空」の裏に「ある」が成り立つという特殊な状態が将棋の本質に潜んでいるのだ。すでに述べたように哲学に無知なガイドではあるが、「ある」に疑問を持ったハイデガーと、将棋が持つ空の世界観に、かすかなリンクが感じられるのだ。もしや、糸谷はその深い研究から、この部分での何らかの共通点を認識しているのではないだろうか。さらに、この書には興味深いことが書かれていた。
ただ一つの確定は「死」そして「自由」
ハイデガーは『存在と時間』の中で次のように語ったそうだ。「死は確実にやってくる。しかし当分はやってこないと人は言う。……こうして世人は、死の確実性が持つ特徴、いかなる瞬間にも可能であるということを隠蔽(いんぺい)してしまう。死の確実性には、それがいつやってくるのかの不確定性がともなっているのである」
ハイデガーは存在を「死を真正面から見つめること」で解明しようとしているのだ。そして究極まで「死」を探求していく中から「存在の意味は死を自覚することによって初めて本来的になる。今まで目をそらしていた死こそ、現存在にとって本来的な可能性であり自由である」という思想を得る。「死こそが自由につながる」というのだ。
では将棋に目を向けてみよう。将棋においては「死」がない。同じ盤競技であるチェスや囲碁は駒や石が死ぬ。だが、将棋の駒は死なない。取られれば、相手の駒となり、永遠に死なないのだ。かつて升田幸三が人材の活用と語った、将棋だけが持つ「持ち駒ルール」である(過去記事)。駒の生命という輪廻がつづき、勝負を決める最終の「詰め」においてさえも駒は死なない。前述のように「王将」が動けなくなったのである。競技におけるルールは思想であり哲学である。ならば、将棋が持つ哲学性は「死」の排除である。しかしながら、いや、だからこそだろうか、駒は自由に動き回る。たった一局における、その動きの場合の数は10の220乗。宇宙全体の分子の数に匹敵するほどの自由度である。
ハイデガー哲学が語る「死が前提となる現実での自由」世界。将棋の哲学である「死のない盤上の自由」世界。この2つに糸谷は大きく足を踏み入れているのである。糸谷の好きな言葉の一つが「不屈」であることはすでに述べた。実はもう一つある。それは「自由」という言葉なのである。
スルーされていなかったハイデガー、そして糸谷。
ガイドは『ソフィーの世界』においてハイデガーがスルーされていると書いた。それは、確かなことである。だが、再読した上で新たな認識というか感覚を持った。それは、この書全体がハイデガーの哲学そのものなのではないかということである。この書はソフィーという主人公を通して「存在」を問い続けている。「自分の存在とは何なのか」というテーマが貫かれているのである。
さて、ガイドの浅薄な分析ではあるが、以上をもとに、まとめてみたい。
糸谷はずっと己の存在を問い続けてきたのではないだろうか。その解を得る手段として「ハイデガー哲学」と「将棋哲学」を選んだのではないか。その探求の中から「怪物大王」へと進化してきたに違いない。もう一度、前掲の画像をご覧いただきたい。糸谷竜王の爪が獲得したものは「哲学」という玉(ぎょく)であろう。この玉無くして糸谷の快挙は語れぬと、あらためてガイドは言いたい。
終わりに
皆さん、ここまでお付き合いありがとうございました。糸谷哲郎・竜王のこれからの言動に「哲学」という光を当てて追いかけていきたいとガイドは思っています。ご意見、ご感想いただければ幸いです。---追記---
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