将棋/将棋棋士紹介

「怪物大王」糸谷哲郎とハイデガー(3ページ目)

平成26年12月4日、糸谷哲郎は森内俊之を破り竜王位を奪取した。現役大学院生が成し遂げた史上初の快挙である。棋界の「怪物くん」と呼ばれた彼が、院に進んでまでも極めようとしているものは哲学だ。今回は彼が卒論のテーマにしたハイデガー哲学を通して糸谷に迫っていきたい。

有田 英樹

執筆者:有田 英樹

将棋ガイド

「ある」を問うハイデガーと「ない」将棋

その書はガイドにピッタリのタイトルだった。いわく『この一冊で哲学がわかる!(白鳥春彦=著)』である。

 この書はソフィーとはまったく逆。なんとハイデガーのために項を設け、20ページ以上をさいている。言葉も平易でガイド向き。なんともありがたい書である。何度も読み返し、見えてきたことがある。ハイデガーは「ある」を問い続けた哲学者だったということだ。「ある」つまり「存在する」ということはどういうことなのか。ここに疑問を持ったのがハイデガーだった。ガイドには、この疑問自体が疑問だが、これがハイデガーである。彼以前には「ある」という言葉から発した哲学の例としてデカルトの「我思う、ゆえに我あり」がある。そして、ハイデガーはこの言葉を批判する。このデカルト発言は「我思う、ゆえに、我ありと思う我あり、と思う我あり……」と永遠に続くだけではないかと。ここまでくると、ガイドの手には負えない。しかし、一つだけわかることがあった。

将棋とは「ある」ではなく、「ない」を最終目標とする競技なのだ。これは過去記事「3月のライオンはマンガの姿をしたポエムである」にも書いたことなので、ぜひお読みいただきたい。厳密に言えば将棋に勝ちはない。詰みの状態、つまり、王将の行き場が無くなった時に「ありません」の一言によって負けが成立し、終了する競技なのである。その後に勝ちが姿を現す不思議な特質を持っている。いわば「ない=空」の裏に「ある」が成り立つという特殊な状態が将棋の本質に潜んでいるのだ。すでに述べたように哲学に無知なガイドではあるが、「ある」に疑問を持ったハイデガーと、将棋が持つ空の世界観に、かすかなリンクが感じられるのだ。もしや、糸谷はその深い研究から、この部分での何らかの共通点を認識しているのではないだろうか。さらに、この書には興味深いことが書かれていた。

ただ一つの確定は「死」そして「自由」

ハイデガーは『存在と時間』の中で次のように語ったそうだ。

「死は確実にやってくる。しかし当分はやってこないと人は言う。……こうして世人は、死の確実性が持つ特徴、いかなる瞬間にも可能であるということを隠蔽(いんぺい)してしまう。死の確実性には、それがいつやってくるのかの不確定性がともなっているのである」

ハイデガーは存在を「死を真正面から見つめること」で解明しようとしているのだ。そして究極まで「死」を探求していく中から「存在の意味は死を自覚することによって初めて本来的になる。今まで目をそらしていた死こそ、現存在にとって本来的な可能性であり自由である」という思想を得る。「死こそが自由につながる」というのだ。
では将棋に目を向けてみよう。将棋においては「死」がない。同じ盤競技であるチェスや囲碁は駒や石が死ぬ。だが、将棋の駒は死なない。取られれば、相手の駒となり、永遠に死なないのだ。かつて升田幸三が人材の活用と語った、将棋だけが持つ「持ち駒ルール」である(過去記事)。駒の生命という輪廻がつづき、勝負を決める最終の「詰め」においてさえも駒は死なない。前述のように「王将」が動けなくなったのである。競技におけるルールは思想であり哲学である。ならば、将棋が持つ哲学性は「死」の排除である。しかしながら、いや、だからこそだろうか、駒は自由に動き回る。たった一局における、その動きの場合の数は10の220乗。宇宙全体の分子の数に匹敵するほどの自由度である。

ハイデガー哲学が語る「死が前提となる現実での自由」世界。将棋の哲学である「死のない盤上の自由」世界。この2つに糸谷は大きく足を踏み入れているのである。糸谷の好きな言葉の一つが「不屈」であることはすでに述べた。実はもう一つある。それは「自由」という言葉なのである。

スルーされていなかったハイデガー、そして糸谷。


竜王と玉/イメージ

竜王と玉/イメージ

ガイドは『ソフィーの世界』においてハイデガーがスルーされていると書いた。それは、確かなことである。だが、再読した上で新たな認識というか感覚を持った。それは、この書全体がハイデガーの哲学そのものなのではないかということである。この書はソフィーという主人公を通して「存在」を問い続けている。「自分の存在とは何なのか」というテーマが貫かれているのである。

さて、ガイドの浅薄な分析ではあるが、以上をもとに、まとめてみたい。

糸谷はずっと己の存在を問い続けてきたのではないだろうか。その解を得る手段として「ハイデガー哲学」と「将棋哲学」を選んだのではないか。その探求の中から「怪物大王」へと進化してきたに違いない。もう一度、前掲の画像をご覧いただきたい。糸谷竜王の爪が獲得したものは「哲学」という玉(ぎょく)であろう。この玉無くして糸谷の快挙は語れぬと、あらためてガイドは言いたい。

終わりに

皆さん、ここまでお付き合いありがとうございました。糸谷哲郎・竜王のこれからの言動に「哲学」という光を当てて追いかけていきたいとガイドは思っています。ご意見、ご感想いただければ幸いです。

---追記---

「敬称に関して」

文中における個人名の敬称について、ガイドは下記のように考えています。
(1)プロ棋士の方の活動は公的であると考え、敬称を略させていただきます。ただし、ガイドが棋士としての行為外の活動だと考えた場合には敬称をつけさせていただきます。
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