結婚に反対されなかった理由は!?
――おつきあいしてから結婚までは、どのくらいだったんですか?2年くらいでした。
――タイラーさんをご家族に紹介した時は、どんな反応でしたか? 国際結婚は反対されるという話をよく聞きますが、その点はいかがでした?
父はその頃、半身不随で言葉も不自由な状態だったので特に反対はなく、母からも反対はされませんでした。彼が背が高くて、こんな田舎ですごく目立っていたので、「あなたもう他の人とは結婚できないから、この人しかいないから、早く結婚しなさい」って。
それで、アメリカに語学留学して、すぐに結婚しました。タイラーもその頃、旅館のことは全然考えていなかったんですよ。私は旅館を継ぐように育てられたわけではないし、ましてや姉たちも次々にお嫁に出しているので、母は私にも「あなたたちも継ぐ必要はないわよ」って言っていたんです。旅館をやるという雰囲気は一切なかったですね。
――お母様はご自分の代でやめてもいいと?
そうなんですよ。もともと両親の代で始めた旅館だったので。
今の建物は、もと料亭だったものを買っているので歴史があるのですが、亀清旅館は以前は別のところにあって、こちらの物件を買って、移転してきたんです。奥の広間は100年前の建物で、今は廊下でつながっていますが、昔は廊下がなく、離れ風だったので、お料理は外から運んでいったそうです。
――そうだったんですか。いい造りですよね。真ん中にお庭があって、池があって。入口の広さも印象的ですし。
父が設計士の勉強をしていたので、殺風景だった玄関を改装したんです。今思えばこういうのもアリですけど、その当時は変わった玄関と言われてました。旅館にしては玄関が大き過ぎるとか……。慣れるとこういうのも良いと思います。
天井が高く広々としたエントランス・ロビー
旅館を継ぐつもりは、まったくなかったという、磨利さん。結婚して、10年以上シアトルで暮らしていた二人が再び長野の旅館に戻ってきた、きっかけは?
次回後編では、引き続き、磨利さんに、旅館を継ぐことになった経緯、若旦那タイラーさんの仕事ぶりについて、お話いただいています。ぜひ、お楽しみに。
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