ジェロニモス修道院とベレンの塔の歴史 1.大航海時代の幕開け

サンタ・マリア教会のイエス像

サンタ・マリア教会の2階に掲げられたイエス像。よく見ると背後の柱にも繊細な装飾が施されているのがわかる

ジェロニモス修道院の西ファサード

ジェロニモス修道院の西ファサード。教会、回廊、修道院以外の場所は国立考古学博物館、海洋博物館として公開されている

中世、世界でもっとも栄えていたのは中東と地中海沿岸部だ。当時、ユーラシア大陸最西端にあり、大西洋に面するポルトガルはその発展から取り残されていた。地中海貿易に参入できないポルトガルは大西洋に目を転じ、未知の大海原へと出航する。

1414年、ポルトガル国王ジョアン1世と息子エンリケは、イスラム教徒たちのイベリア半島進出の拠点であった北アフリカのセウタを攻略(詳細は「ポルト歴史地区/ポルトガル」参照)。ここを足がかりに、アフリカにあるという「黄金の国」、キリスト教大国「プレスター・ジョンの国」、インドへ続く航路があるという伝説をもとに、アフリカ南下に着手する。

 

サンタ・マリア教会のステンドグラス

サンタ・マリア教会のステンドグラス

マデイラ諸島、アゾレス諸島、カーボベルデ諸島などを発見し、1470年代までにギニア湾に到達してアフリカ航路を開拓。アフリカ中部の国々と金の貿易を開始した。1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ最南端のアグラス岬を発見し、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがついにインドのカリカットに上陸。念願のインド航路を切り拓く。

さらに1500年にはカブラルが南米のブラジルに漂着。これ以降、ポルトガルはアフリカ・アジア・南米からもたらされる金や香辛料、砂糖、奴隷などによって莫大な富を得て、ヨーロッパ随一の繁栄を勝ち取ることになる。

 

ジェロニモス修道院とベレンの塔の歴史 2.繁栄の象徴

サンタ・マリア教会の黄金の祭壇

サンタ・マリア教会の黄金の祭壇。教会内部にはこうした数々の祭壇が設けられている

ヴァスコ・ダ・ガマの棺

サンタ・マリア教会に収められたヴァスコ・ダ・ガマの棺。近くにはポルトガルの詩人、ルイス・デ・カモンイスの棺がある

この黄金期に王位に就いたのがマヌエル1世だ(在位1495-1521年)。その治世の間にポルトガルの船団はマレーシアのマラッカや中国の広東にまで達し、ブラジルから中国に至る海上ルートを独占し、海上帝国を創り出す。

その富を背景に、マヌエル1世は芸術を振興した。リスボンに集められた芸術家たちは当時の流行だったゴシック様式を導入しながらも、ポルトガルらしい独自のスタイルを探求。これがマヌエル様式の誕生につながった。

マヌエル1世はエンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業を記念して、ヴァスコ・ダ・ガマが出航したベレン地区にふたつの建物の建造を開始する。これがジェロニモス修道院とベレンの塔だ。

 

バターリャ修道院

14世紀から建築が進められ、エンリケ航海王子の父・ジョアン1世の時代に完成したバターリャ修道院。マヌエル様式の萌芽が認められる

1502年に着工したジェロニモス修道院の大部分は在位時に完成し、以来王家の霊廟はバターリャ修道院(世界遺産)からこちらに移された。エンリケ航海王子の棺はバターリャ修道院、マヌエル1世やヴァスコ・ダ・ガマの棺はジェロニモス修道院に収められている。

しかしながらジェロニモス修道院の一部は未完のまま残され、その後スペイン、オランダ、イギリスの台頭でポルトガルが没落すると建設は中断され、結局完成は19世紀にずれ込んだ。

一方、ベレンの塔は1515~1521年の建造で、首都リスボンを流れるテージョ川の中州に監視砦として建てられた。現在川岸に立っているのは川の流れの変化による。