縄文時代から人が居住、
交通の要衝、物資の集まる地として繁栄
千葉県第二の都市船橋市は東京と県都千葉市のそれぞれから約20キロ圏にあり、中核市の中では最大の人口を擁する街。総武線、京成線、東武野田線の3線が乗り入れており、また近くには京葉道路、東関東自動車道なども走る交通の要衝です。都心への足回りが良いため、都心通勤者が人口の4割近くを占め、その利便性から市全体でも20代、30代が多い自治体となっています。
船橋市内では貝塚が多く発見されていることから、縄文時代から人が住んできた地であり、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には船橋の地名が登場しています。由来としては日本武尊が東征の折、川を渡るために船で橋を作り、それを船橋と呼んだことによるという伝説が有力と言われています。いずれにしても歴史のある街であるわけです。
中世には海老川河口の港として、また、船橋大神宮(正式には意富比神社 おおひじんじゃ。京成線大神宮駅が最寄駅)の門前町として、近世には御成街道、佐倉街道、房総往還や成田山参拝客の休憩地などとしても栄え、交通の要衝であることは昔から変わらずというところ。
その後、近代になると軍都習志野に隣接することから各種インフラの整備が進み、今の発展の礎が築かれます。戦後は元々物資の集まる場所であったことに加え、戦災の影響が少なかったことから闇市が隆盛、一時は日本の上海とまで言われたとか。繁華街の、いささか猥雑な活気の源はそこにあるのかもしれません。
船橋市の住宅地としての発展は昭和30年代後半から。内陸部に団地が作られたことから人口が増加、同時に沿岸部には京葉工業地帯が発展したことから、船橋駅周辺など商業エリアもおおいにその恩恵を受けました。高度経済成長以前は船橋駅から南に延びる駅前通りと、その通りと東西に交差する旧宿場町、本町通りが中心地でしたが、昭和42年に駅南口に西武百貨店、昭和52年に北口に東武百貨店ができたことから、現在はJR船橋駅、京成船橋駅を中心にした駅周辺に重心がある様子。特に本町通りは繁華とは言いにくい状況になっています。
市政の中心、
繁華な南口側にはタワーマンションなども
さて、そんな船橋駅周辺を見ていきましょう。まずは南口。こちらは前述したようにJR、京成の2駅間がもっとも繁華なエリアとなっています。南口の右手には西武百貨店、その向かいにはロフトがあり、正面には再開発ビルFACE。駅とこのビルにはペデストリアンデッキで繋がれており、さらにビル内を通り抜けると京成船橋駅。2駅が再開発ビルを介して繋がっているわけです。
この再開発ビルの脇の通りが駅前通りで、商業ビル、飲食店街などが集中、昼夜問わず、人と車が集まっています。駅から少し離れると前述の本町通りと交差しますが、この2本の通り沿い、通りから少し入ったあたりにはタワーマンションを含め、ある程度の規模のマンションも。駅から徒歩圏だけでもかなりの数があります。また、この2本の通り沿いには市の中央図書館、市民文化ホールもあります。市役所、消防署、保健所などもこの通りから少し入ったところに立地。利便性の高い場所です。
市役所のすぐ近くには、大正10年に建てられたという割烹旅館玉川があり、当時は市役所あたりまでが海。ここは小説家太宰治が滞在したことで知られていますが、建物は高床式になっており、往時は室内から釣り糸を垂れることができたとも。その後の市街の拡大ぶりを想像すると、ちょっとくらくらします。
その市役所から先も今はもちろん住宅地となっており、京葉道路を越えると工場も目につき始め、東関東自動車道以遠はさらに増えます。一方で西側には江戸前の魚介類の水揚げの一大拠点でもある船橋漁港があり、新旧が入り混じる風情。最近では元々は海外から偶然にもたらされたボンビノスガイが東京湾内に定着、船橋漁港から全国に出荷されています。この貝、以前は大あさりや白ハマグリなどとも呼ばれていましたが、最近は食品偽装の問題もあり、正式名称で売られいます。私の場合、あれを見るとどうも船橋を連想してしまいます……。
大規模店はあるものの、
緑のある、静かな雰囲気の北口側
続いては北口側を見ていきましょう。こちらにも東武、イトーヨーカ堂などの大規模店がありますが、個人商店が少ないせいでしょうか、南口側に比べると静かな雰囲気。駅前にタワーはあるものの、住宅の規模も南口側よりは控えめです。
また、他にまとまった公園のない船橋駅周辺では唯一、避難場所にも指定されている天沼弁天池公園があるのもこちら側。噴水やじゃぶじゃぶ池があり、桜の名所でもあります。このあたり以遠は一戸建て、マンションの入り混じる住宅街になっています。昭和30年代以降に作られた団地も北側、内陸部に集中しています。
続いて総武本線船橋駅の住宅事情を見ていきましょう。