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ダンサーズ・ヒストリー Noism1 井関佐和子(8ページ目)

りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館専属舞踊団Noismのメインダンサーとして、10年間に渡りカンパニーを牽引してきた井関佐和子さん。彼女が歩んできた舞踊家への道程とは? ここでは、井関さんのダンサーズ・ヒストリーをご紹介します!

小野寺 悦子

執筆者:小野寺 悦子

バレエガイド


日本初の劇場専属舞踊団、Noism発足! 

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Noism04『SHIKAKU』(2004年) 撮影:篠山紀信

2004年、りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館が芸術監督に金森穣を迎え、日本初の劇場専属舞踊団Noismの設立を決定。金森は新潟に拠点を移し、カンパニーの立ち上げに邁進する。

全国から集った入団希望者と肩を並べ、分け隔てなくオーディションを受けた。いち舞踊家として、芸術監督・金森穣から合格を告げられる。Noismの発足に向け、今や伝説となった金森穣の鬼のような日々が始まった。スタジオには毎日のように芸術監督の怒鳴り声が響き、ぴりりとした緊張感が張り詰める。
「本当に鬼でした(笑)。人ってこんなに怖くなれるんだって、びっくりしましたね。だけど、今考えたらしかたがないし、そうするしかなかったと思う。これだけのことをやるんだと言っておいて、中途半端なことはできない。志が高かったんですね。当時私たちが見えてたものなんかより、遥かに遠いものを見てたんです」

幕開け作品の『SHIKAKU』に二作目の『black ice』まで、半年以上もの間芸術監督の顔に笑顔が浮かぶことはなかった。金森穣自身、当時まだ29歳という若さ。日本初の劇場専属舞踊団を背負う重圧は、並大抵のものではなかったろう。ふたりの関係も、芸術監督と舞踊家として一線を引かざるをえない。
「プライベートも全然優しくなかった。穣さんが『SHIKAKU』の直後に公私を完全に分けると言って、別々に暮らすようにしたんです。本当に別れる気でいました。ずっとケンカばかりしていたし、今思うと大変な時期でしたね」

カンパニーにとって、そしてふたりにとって転機となったのが、2005年11月に発表した『NINA~物質化する生け贄』。金森穣の中で身体性の方向が明確になり、自身のメソッドを見出した時期だ。
「振付家としてすごく大きな作品だったと思います。あの頃やっと穣さんが、“自分のことを信じてみろ”と言ってくれて……」
作品は絶賛され、Noismとして初の海外進出を果たした。プライベートもようやく落ち着きを取り戻し、過酷なアメリカツアーも強固な絆で乗り越えた。

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Noism05『NINA-物質化する生け贄』(2005年) 撮影:篠山紀信



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