濁流の注ぐ先は
では、それほどまでにこだわった「棋士」という存在は彼にとって何だったのか。ここで一つ米長の言葉を紹介したい。「棋士として大成するかどうかは、その母親を見ればわかる」
この言も摩訶不思議である。これまでにも、いろんなジャンルでの大成者が出現してきた。勝負の世界での例をあげよう。戦後復興の中、力道山はある17才の少年の背中の筋肉を見てその素質を確信した。少年は後のアントニオ猪木である。400勝投手・金田正一はある新人バッターを手玉に取りながらも、そのスイングの速さに将来の野球界を背負う資質を感じた。後のミスタープロ野球・長嶋茂雄である。柔道家・牛島辰熊は門下生にあおいでくれと頼み、うちわがわりに畳を使う弟子に驚愕させられたと言う。その弟子こそ柔道史上最強の木村政彦である。かように、力道山も金田も、そして牛島も彼らが出会った弟子や後輩の体幹や身体能力、剛胆さに着目してはいるが、その母の存在に関心など持ってはいない。米長だけが母親を成功のファクターとして持ち出しているのだ。実際、彼は将棋界に入ってきた後輩達の母親にわざわざ会いにまで行っている。
濁流-イメージ
ここでふれておかねばならぬことがある。実は、棋士という源流は米長自身の渇望から生じたものではなかったということだ。
究極の後手を引いていた米長
農村に生まれる-イメージ
考えてほしい、3人の兄達は東大へ進む学力を持っている。これは、塾・予備校全盛の現代でも驚異だが、その頃の農村ではまさしく「神童」の出現なのである。それだけでも弟は、無言の圧力を感じていたに違いない。何の因果か、神童3人の後、四番目という「究極の後手」を引いて生まれてきたのだ。ゆえに、彼は佐瀬に預けられることになった。親元を離されたのはわずか12歳の時だ。彼は叫ばずにはいられなかった。
「兄貴達は頭が悪いから東大へ行った。俺は頭が良いから棋士になった」
母のご飯-イメージ
彼は返す。「何を言う。兄貴達はいつも母さんの作ったご飯を食べてるじゃないか」
望んだものは「棋士」でもなければ「特別待遇」でもなかった。「母」こそが渇望そのものだった。ゆえに彼は棋士を至上ならしめねばならなかった。その上で、佐瀬に「なれるかどうかわからない」と言われた最上位「名人」にならねばならなかった。それこそが母の元を離れるという辛苦の対価であるべきものだった。けっして「口減らし」などではなかったとするには「至上のさらに最上位を獲得できる自分」が必要だった。究極の後手をひいた彼は、その目標を達成するために世間を挑発し先手を指し続ける。羽生の言う「鬼気迫る」理由はここにあったのだ。たしかに世間は沸いた。その言は棋士に注目を集め、彼は時の人となる。しかし、なかなか届かぬ名人位。蜃気楼のごとく逃げていくその幻影を彼は追い続ける。そして、親元を離れてから実に37年の歳月をかけ、7度目の挑戦で、ついに名人位を獲得する。未だに破られぬ最年長(49才)での名人位獲得であった。執念という言葉が世間に踊る。ちなみに、翌年50才になった米長から名人位を奪ったのは彼の年齢の約半分の羽生善治だった。
薄暮に暗幕が-イメージ
最後に米長の名言集・勝負術(電子書籍)を紹介し、この記事を了としたい。前後編とお付き合いいただき、ありがとうございました。
了
----------------
追記
「敬称に関して」
文中における個人名の敬称について、ガイドは下記のように考えています。
(1)プロ棋士の方の活動は公的であると考え、敬称を略させていただきます。ただし、ガイドが棋士としての行為外の活動だと考えた場合には敬称をつけさせていただきます。
(2)アマ棋士の方には敬称をつけさせていただきます。
(3)その他の方々も職業的公人であると考えた場合は敬称を略させていただきます。