イデビアン誕生!
専門学校時代
意外にも、家族の反対はなかったという。
「自分から“コレをやりたい”って言ったのは初めてだった。何を考えてるかわからない子だったので、親もとりあえず行かせるだけ行かせて、飽きたら帰ってきて美容師をさせればいいと考えてたんだと思う」
ダンサーではなく、当初から振付家志望。振付に興味があり、振付家とい う仕事
専門学校時代
「先生が指導するのを見ていて、“これはもっとこうすればいいのに”とか、“この動きはもっとこうしたほうが面白いのに”って思うことがよくあって、それがフラッシュバックしたんです。“この方があの子は絶対に可愛く見えるはず!”っていうのが、子供ながらにガンとしてあったというかーー」
専門学校に入学し、初めて習ったダンスの授業。「本当にレオタードって着るんだって思った(笑)」という全くの素人からのスタートだ。同級生は子供の頃からバレエやダンスを習っていたりと、皆身体は柔らかく基礎もある。学生は女子が大半を占め、ひとクラスのうち男子生徒はひとりかふたり。井手さんの存在は否が応にも目を引くものになる。
「きっと“佐賀の田舎からやってきて……”って思われてるんだろうなって勝手に想像してた(笑)。“絶対お前たちより上手くなってやる!”っていう、負けん気がありましたね」
専門学校時代
「でも毎月楽しかったです。今でもやりたいくらい」と、井手さん。創作の芽が出始めたのはこの頃から。ただ、そのテイストは一風変わったものだったよう。
「僕が“こういう振付やったら面白いんじゃない?”って提案すると、みんな“えーっ!?”てバカにする。だけど、なかには僕みたいな変わり者がいて……」
クラスの“変わり者”たちが集まり誕生したのがイデビアン。1991年のことだった。当時の作風は、「下品ですね。やりたい放題でした(笑)」。他の学生たちはというと、流行の曲をつなげてはユニゾンでみせ、美しく 完結させる。ある意味ダンス作品の王道であり主流でもあるスタイルだ。
イデビアン結成時
「僕はみんなが踊ってるようなものにはあまり興味がなくて。いいトコど りなものはあえてみせないとか、いいトコでちょっと止めるとか、中途半端なのが好きだった。完結したくなかったんです。完結して“僕たちの踊り、どうだった!?”ていうのが、僕には気色悪いというか(笑)。観てるひとがちょっと腑に落ちないままとか、もしくは想像してもらった方が楽しいなっていうのがありました。そういう部分は今と通じてますね」
王道を行く“美しい”ダンス作品が並ぶなか、イデビアンはある意味お笑い部門。学校の中ではごく少数派で、学生たちの評判もよろしくない。
「みんなには“何あいつら、井手ちゃん相変わらず可笑しいことやるよね”、なんてイロモノ扱い(笑)」
しかし、講師陣にはこぞって褒められた。その評価の高さに周囲の見る目も変わり、2年生になるとクラス委員に選ばれている。クラス委員の役割として、卒業公演を仕切るリーダーを任された。
「まず振付をしたいひとを集めて、構成をつくって、シーンごとに話し合って決めていく。ちょっとした演出家みたいな役をさせてもらいましたね」
イデビアン結成時