ポルトガルの栄光を支えた料理 2.ポートワイン
ポルト歴史地区で見かけたワイン屋さん。中央のポスターではポートワインを「ポルトの魂」としている。ワインやブランデーのブレンド、樽や瓶内熟成の期間などによって味わいが変わるため、種類は無数
セウタ攻略を描いたサン・ベント駅のアズレージョ。アズレージョとは青と白を基調とした磁器タイルのことで、15世紀にポルトガルにもたらされ、この壁画を機に全土に広まった
実は、こうした航海を支えていたのがワインだ。外洋航海に水は欠かせなかったが、熱帯地方の場合、水は1か月ほどで腐ってしまったという。そのためアルコール飲料を水の代わりに持ち込み、水がなくなるとビール、ビールがなくなるとワインと、アルコール度数の低い順に消費した。
しかし、ワインでもせいぜいもって3か月。アルコール度数の高いブランデーは腐らないが、水の代わりに飲むわけにもいかない。そこで、ワインにブランデーを入れた酒精強化ワインが積み込まれるようになったらしい。
ファサードのアズレージョが美しいサント・イルデ・フォンソ教会。サン・ベント駅のものと同様、ジョルジェ・コラソの傑作だ
ポルトガルの世界遺産には「マデイラ諸島のラウリシルヴァ」「アルト・ドウロ・ワイン生産地域」「ピーコ島のブドウ園文化の景観」などワイン関連の物件が多いが、これは大航海時代の名残なのである。
もうひとつの世界遺産「アルト・ドウロ・ワイン生産地域」
ポルトからドウロ川の上流約100kmの位置に広がる世界遺産「アルト・ドウロ・ワイン生産地域」。ここで生産され、ポルトで船積みされたワインが大航海時代のポルトガルを支えた
ノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院とドン・ルイス1世橋。アルト・ドウロで生産されたワイン樽はこの辺りに運ばれた。現在も橋の上からその様子を見ることができる
紀元前12世紀以降、地中海貿易を支配していたのは現在のレバノンを拠点としたフェニキア人。彼らが地中海各地に植民都市を建設し、メソポタミアの進んだ文明を各地に伝えた。ポルトもそんな都市のひとつで、この時代にワインがイベリア半島に伝えられた。
アルト・ドウロは標高約1,000mの渓谷。土地は痩せていて急峻だが、日照量は多く寒暖差も激しい。こうした条件がワインに最適で、ローマ時代には一大ワイン生産地となり、ワインはカレの港=ポルトゥス・カレ、つまりポルトから出荷された。
こちらもノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院。宿舎がそのまま城壁となる構造で、修道院に砲台を設置してドウロ川を守っていた
1139年、ポルトゥス・カレ伯がカスティリャ王国から独立を宣言してポルトゥス・カレの国=ポルトガルが誕生。そしてポルトガルはアルト・ドウロを開放してワインの生産を再開した。
大航海時代に酒精強化ワインが誕生し(別説あり)、17世紀にポルト&アルト・ドウロ産の酒精強化ワインが大ヒットしたのは先述の通り。
ニセ物が出回ったことから18世紀に原産地呼称管理制度が整備されると、アルト・ドウロで生産されたブドウのみを用い、ポルトと対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアで加工・熟成・生産された酒精強化ワインのみを「ポートワイン」と定義した。
つまり、ポートワインは必ずこれらふたつの世界遺産を経由していることになるわけだ。