フマユーン廟の歴史 2.王妃ハージ・ベグムとムガル美術

フマユーン廟のイーワーン

フマユーン廟の西ファサード(正面)。東西南北の正面中央にはイーワーンと呼ばれるイスラム建築特有の門&ホールが設置されている

サファヴィー朝の支援の下、フマユーンはアフガニスタンで基盤を作ってムガル帝国を再興。中央アジアからインドへ侵攻し、1556年にはズール-朝を倒して北インド奪還に成功する。しかしながら同年、フマユーンは階段で足を滑らせて急死してしまう。

中央墓室とセノタフ

中央墓室。下にあるのがセノタフと呼ばれる石棺。偽装の棺で、本物の石棺はこの地下にある ©牧哲雄

このようにフマユーンの人生は戦争に翻弄されたが、もともと争いは苦手で学問や芸術を敬愛し、戦いよりも人と交わる宴会を好んだと伝えられている。そして何より妻と息子を深く愛し、特に長男アクバルが実弟に捕まった際には命懸けで救出している。

フマユーンの死を嘆き悲しんだ王妃ハージ・ベグムは、ヤムナ川の畔に愛する夫の棺を収める墓廟を建設する。これがフマユーン廟だ。

芸術を愛した夫に捧げるために、廟はペルシア美術とインド美術の粋を集めて建設された。フマユーンはイスラム教徒だったし、当時科学と芸術の最先端は中東にあったため、ペルシアの華麗な庭園文化が導入された。一方で、ムガル帝国は他宗教に寛容だったため、インド土着の装飾も多分に取り入れられた。

こうしてフマユーン廟は「ムガル美術」と呼ばれる新しい芸術様式を生み出しつつ、着工から約9年後に完成を迎えた。

 

パラダイスを象ったイスラム庭園

フマユーン廟と庭園

緑の中にたたずむフマユーン廟。砂漠やステップで生きる人々にとって水と緑は憧れの対象。緑豊かな庭園は富の象徴であり、パラダイスやオアシスの縮図でもある ©牧哲雄

イサ・カーン・モスクのチャトリ

フマユーン廟に隣接したイサ・カーン・モスクのチャトリ。チャトリはインド建築にしばしば見られるドーム付きの小塔で、フマユーン廟でも採用されている ©牧雄彦

インド西部からイランにかけて広大な砂漠が横たわっており、中央アジアには降水量の少ないステップと呼ばれる草原地帯が広がっている。こうした地域では紀元前の昔からオアシス都市を結ぶ隊商貿易が盛んに行われていた。

砂漠やステップで暮らす者にとって何より大切なのが「水」。だから砂漠やステップを支配する王たちは富の象徴である水をふんだんに使って庭園の美しさを競い合った。

庭園のモデルとなったのが『旧約聖書』や『コーラン』にも描かれている「エデンの園」だ。ゾロアスター教やユダヤ教に古くから伝わるパラダイス伝説で、この楽園には4つの川が流れ、「生命の木」と「知恵の木」をはじめとする木々と果実で満ちあふれているのだという。イスラム庭園には4つの水路が設置されていることが多いのだが、それはこのエデンの園を模しているためだ。 

 

「イスファハンのイマーム広場」のシェイク・ロトフォラー・モスク

イランの世界遺産「イスファハンのイマーム広場」のシェイク・ロトフォラー・モスク。やはり水がふんだんに使われている ©牧哲雄

そしてインドにはじめてこの様式をもたらしたのがフマユーン廟だ。一辺約350mの外壁の内側に広がる庭園はエデンの園を流れる川を示す水路で4つの正方形に切り分けられており、それぞれに木々を植えて水と緑あふれるパラダイスを表している。

このような四分庭園をチャハールバーグと呼ぶが、チャハールバーグはイランの世界遺産「ペルシア庭園」や「イスファハンのイマーム広場」などでも見ることができる。