ムガル建築の傑作、インドの世界遺産「デリーのフマユーン廟」

デリーのフマユーン廟

フマユーン廟。高さ7mにもなる基壇の上に、高さ21mの墓廟がそびえている。庭園を東西南北に縦断する水路は天国を流れる4つの川を示している ©牧哲雄

インドの世界遺産「タージマハル」が、皇帝シャー・ジャハーンが亡き妻ムムターズに贈った墓廟(遺骨を収める墓と霊を祀る廟が合わさった建物)であることは有名だ。実はインドにはその反対に、王妃が亡き夫のために築いた墓廟がある。

ペルシア美術とインド美術を融合させたその墓廟があまりに美しかったことから「ムガル美術」という新しい芸術様式が誕生し、ムガル帝国の繁栄とともにインド中に拡散・浸透する。その影響を受けて約100年の時を経て建築されたのがタージマハルだ。今回はムガル建築のさきがけとなったインドの世界遺産「デリーのフマユーン廟」を紹介する。

フマユーン廟の歴史 1.ムガル帝国第2代皇帝フマユーン

フマユーン廟の墓廟

基壇上の様子。紅白模様は赤砂岩を削って白大理石をはめ込んだ象嵌細工。そのため色彩が劣化せず、創建当時の美しいコントラストを保っている

「インドといえばインド半島(インド亜大陸)」というイメージがあるが、それはムガル帝国~イギリス統治~インド独立を通してできあがった印象で、18世紀までは半島が国としてまとまることはほとんどなかった。

西門から見たフマユーン廟

西門から見たフマユーン廟

むしろいまのデリーやアグラのあるガンジス川周辺のいわゆる北インドは、砂漠からステップへとつながる中央アジアやペルシアと結び付きが強く、古代のマウリア朝やクシャーナ朝をはじめ北インド~中央アジアを勢力圏とする大国がしばしば誕生した。ムガル帝国もそんな大国のひとつだ。

中央アジアのオアシス都市フェルガナの領主で、チンギス・ハーンの血を引くバーブルは、ペルシア(現在のイラン周辺)を治めるイスラム教国サファヴィー朝と同盟して領土を拡大。インドに侵攻するとデリー・スルタン朝最後の王朝・ロディー朝を滅ぼして、中央アジア~北インドにまで版図を広げる。ムガル帝国の誕生だ。

バーブルが病死すると長男フマユーンが跡を継ぐが、北インドは非常に難しい状況に置かれていた。西インドにはラージプート民族の諸国家、南インドにはヒンドゥー教国家群、東インドにはズール-朝が控えていたことに加え、ロディー朝の残党や皇帝位を狙う親族もいた。

 

16世紀前半、ムガル帝国はズール-朝との戦いに敗れ、実弟の反乱などもあって弱体化。フマユーンは命からがらインドを逃げ去り、サファヴィー朝を頼ってペルシアへと落ち延びた。代わりにズール-朝が北インドを広く支配し、ムガル帝国は一時滅亡に追い込まれた。