生け贄の泉=聖なるセノーテと、マヤ人の自然観
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球戯場のレリーフ。首をはねられたリーダーの体から出た血液が、蛇の形になって飛び出している ©牧哲雄
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生け贄を生きたまま投げ込んだという聖なるセノーテ ©牧哲雄
この聖なるセノーテは雨の神チャックのすみかと信じられ、定期的に生け贄が捧げられたようだ。生け贄は子供から処女、男性にまで及び、生きたまま投げ込まれたという。
これらの生け贄の儀式をもってマヤの人々は残忍だったとか、残虐な儀式とかいわれるが、必ずしもそうはいえない。どこまでも自然を愛した人々だからこそ、自然の周期性に気づいたのだし、自然を尊んだ。自然の神秘はそのまま神の所業であると考えられ、自然のあらゆる場所に神々を見出した。
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千柱の間とエル・カスティーヨ ©牧哲雄
たとえば近年の戦争では国家のために人々は死んでいくのだが、マヤ人にしてみれば、人が作り出した国家などという概念のために死ぬことの方がよほど残虐だと思えるかもしれない。
自分の価値観で相手を判断するのではなく、相手の価値観で世界を見つめること。他文化理解はそのような視点からしか実現しない。