世襲にならざるを得ない環境
現在では、弟子など一般家庭の出身で大きな名前を襲名することはかなり少なくなっています。これは何も歌舞伎界が閉鎖的だからではありません。世の中のシステムが、伝統芸能という文化を育てる環境ではないためです。かつて江戸の昔から明治・大正・昭和初期までは、一般人の子弟でも、それこそ歌舞伎役者の実子と殆ど変わらぬ条件で修行ができる環境がありました。邦楽は町のあちこちに流れ、隣には清元の師匠が住んでいたりしたのです。
しかし、時代は変わりました。歌舞伎役者の子供以外で、物心もつかぬうちから家で邦楽がかかり、踊りや鳴り物のお稽古をする子供など現代ではほとんどありません。
さらに義務教育と職業選択の自由が当たり前の世の中で、小さい頃から専門教育を受けさせるといった制度を用意するのは事実上不可能でしょう。歌舞伎では国立劇場の養成所は今や欠かせぬ機関になりましたが、これも義務教育の終了後にしか対応できません。つまり、何も御曹子ばかりを大事にしているのではなく、結果として御曹子以外の人間がそれを凌ぐということが非常に困難な状況になっているのです。
結果として、歌舞伎役者の家に生まれた子供たちは、その名前だけでなく、積みかさねられてきた歴史を「芸の面影」として受け継ぐということを宿命づけられることになったのです。
近年では、片岡愛之助さんが一般家庭の出身でありながら人気役者として大活躍していますが、彼も小さな頃から子役として舞台に立ち、早い時期から修行を開始していました。
襲名が意味すること
さて、そうした厳しさがあるゆえに「襲名は役者を一回り大きくする」と言われています。先日、六代目勘九郎を襲名した中村勘太郎や、四代目猿之助を襲名した市川亀治郎を例にとりましょう。「勘太郎、亀治郎」という「器」には水が一杯に溜まっていて今にも溢れ出しそうな状態でした。これを「勘九郎、猿之助」という沢山の観客の思いが込められた大きな器に移すのが襲名です。
すると先ほどまで溢れ出そうだった水が容器の底にわずかに溜まるばかりです。そこで、今度は新しい器を一杯にするためには更なる修行、活躍をするしか道はありません。
團十郎の口上
しかも、この「器」の厄介なのは、その役者が溜めた水の量にあわせて大きさを変えるということです。いま受け取った「器」が一杯になるまで水を溜めれば、「器」はさらに大きくなります。注げども注げども溢れ出すことはない。ところが、いつまでも水が増えないと「器」はどんどん小さくなります。そして少ない水で一杯になってしまうようになってしまう。この「器」を更に大きくしてバトンタッチできた役者だけが「名優」として将来に名を残すことになります。役者は皆、それを知っているからこそ、襲名という行事を経て、一回りも二回りも大きくなるのでしょう。
幸い、四代目猿之助も、六代目勘九郎も歌舞伎に人一倍の情熱を捧げているひとたちです。きっと受け継いだ名前をさらに大きなものにして、次代へバトンタッチしてくれるでしょう。
こうした事実を前にすれば「世襲制や襲名なんて、制度に寄りかかって楽をしているだけだ」などという批判がいかに的外れなものかが分かると思います。「芸」は現金ではありません。ただ名前を受け継いだだけでは「芸」は手に入りません。襲名をする、ということは更に厳しい修行の日々が待ち受けているということなのです。
しかも役者は、襲名によって積み重ねられきた歴史を背負うとともに、そこに新しいページを書き加えることにも挑まねばなりません。「守り」と「攻め」は歌舞伎役者が襲名するうえでの車の両輪のごときものだと言えるでしょう。