はじめに
歌舞伎には「襲名」という制度が現代のいままで生き残っています。この「襲名」がもたらす効果については後で詳しく述べますが、役者の名前は「芸」や「芝居」と有機的に結びついている、ということが大切です。たとえば「歌舞伎十八番」は七代目市川團十郎が「これぞ團十郎の芸である」として十八を選び出したものです。「勧進帳」「助六」「暫」「鳴神」「矢の根」「外郎売」「毛抜」などは今でも人気の高い演目で、つい最近まで、市川家以外の人間が歌舞伎十八番の演目を演じる際には、かならず市川家の許可が必要だったほどに大切にされました。
それゆえに名を継ぐものは、その家の得意演目を演ずるに十分な条件を備えていることが求められると考えられます。
團十郎家の芸「暫」
たとえば團十郎という名前には歴代の團十郎の「芸の面影」が既に宿っています。たとえ代々の團十郎を見ていなくても、歴代の團十郎の歴史や伝説を、故・十二代目團十郎さんや、いまの海老蔵さんの上にダブらせてしまいます。
このような役者の歴史、観客の歴史が名前の上に積み重ねられ、その面影と現在の姿がダブって見えてくる重層性を「伝統の重み」と言うのだと思うのです。
役者だけじゃない襲名
現代の私たちにとって「襲名」という習慣は「歌舞伎の世界独特の制度」だという認識があるのではないでしょうか。しかし、実は襲名という考えは江戸時代には今よりはずいぶん「普通」に行われていたようです。そもそも今のように生まれてから死ぬまでに、同じ名前を名乗りつづけるということ自体、近代に入ってからの制度です。かつては、生まれてから年少時、青年時代、成人し親のあとを継いで、最後に隠居して名乗る名と四種類もの名前を一人の人間が名乗る場合もありました。
ビジネスのための襲名
特に商人は、もちろん店の屋号も大切ですが、それを築き上げた主人の「信頼」というのも非常に大きかったのは想像に難くありません。そのため若い主人が跡を継いで商売をしていくときにも、父の名を名乗るということが商売上の信頼を維持するための大きな要因でした。当時はテレビや写真があるわけではなく、離れたもの同士のコミュニケーションの基本はすべて手紙による通信です。その署名がある日、名も知らぬ人間に替わっていたとしたら、取引先の人間はそれを今まで同様に信頼できたでしょうか?つまりビジネスの世界では「襲名」が現実の利益に密接に関わっていたわけです。役者の襲名
役者の襲名も、これに等しいと考えて大きな間違いはないのかもしれません。ただし、商人の襲名は商売上の信頼関係を保つためのシステムであり、子供にあとを譲る「世襲」と密接に結びついています。これと較べると役者の世界も世襲を前提としているものの、更に尊重されるのは「芸」であるという点で異なっていました。
襲名披露狂言
ある役者が大きくした名前には、当然その「芸の面影」が宿っており、観客はそれを求めずにはいられなかったからです。もし跡を継ぐ者のイメージがあまりに名前のイメージとかけ離れていれば、襲名後にその役者は非常な苦労をしたはずです。それゆえ、江戸時代には役者の世界も必ずしも世襲ではなく、より芸風が近いものが後継ぎとして選ばれたケースが少なからずあったようです。また時には、門閥外の弟子が大きく取り立てられるケースも珍しくありませんでした。