世界遺産/インドの世界遺産

ハンピの建造物群/インド(3ページ目)

デカン高原の信じがたい絶景と、ドラヴィダ様式の無数の廃墟、ひなびた農村風景が一体となった古都ハンピは、個人的に考える「もっとも美しい世界遺産」のひとつ。今回はヴィジャヤナガル朝の首都でありながら、400年の間忘れ去られていた幻の都、インドの世界遺産「ハンピの建造物群」を紹介する。

長谷川 大

執筆者:長谷川 大

世界遺産ガイド

ハンピの見所3. 宮廷地区

ミニマルな印象を持つ階段池

幾何学的な階段群が美しい階段池。ドラヴィダ様式の物々しい寺院や宮殿建築の中にあって、このミニマルな意匠はきわめて特異

ロータス・マハル

天井やアーチの形がイスラム建築の影響を感じさせるロータス・マハル。装飾もアラベスクを流用している

宮廷地区には王や王妃の宮殿跡が多数点在している。第一の見所となっているのが蓮の宮殿、ロータス・マハルで、クローバーを思わせる多心アーチや石造りの多層屋根はアグラにあるイスラム都市遺跡「ファテープル・シークリー」(世界遺産)と似ており、イスラム建築の影響を色濃く感じさせる。

その西にある象舎エレファント・ステイブルでは、兵力・労働力として大切な役割を果たしたゾウが飼われていた。また、王妃の浴場はハーレムの一部のようで、王はここで女性を吟味したという。

宮廷地区でも異彩を放つのが階段池だ。ヒンドゥー教の街にはどこにも沐浴場があるものだが、この階段池は現代美術を思わせるようなデザインがひときわ目を引く。正方形に切り取られた穴の側面は5層の階段構造で、それぞれの層にはピラミッド状の小階段が張り巡らされている。

 

そして宮廷地区のハイライトがハザーララーマ寺院、別名ラーマチャンドラ寺院だ。15世紀、デーヴァラーヤ1世がヒンドゥー教の大叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公ラーマ王子を祀るために建てた寺院で、マンダバには王子にまつわる数々のレリーフが飾られている。

ヴィジャヤナガル朝とハンピの歴史

宮廷地区のエレファント・ステイブル

宮廷地区のエレファント・ステイブル。ゾウは大切な労働力であり、兵器であり、神の使いでもあった

ヴィルパークシャ寺院のアプサラ像

ヴィルパークシャ寺院の壁面に刻まれた天女アプサラ像

11~12世紀、アフガニスタンやパキスタンを支配していたガズナ朝やゴール朝が北インドに侵入してイスラム教を広げると、1206年にはアイバクが奴隷王朝を開き、以後320年にわたって北インドをイスラム王朝が支配する。これをデリー・スルタン朝という。

デリー・スルタン時代の3代王朝であるトゥグルク朝は絶大な勢力を誇り、南インドを侵略し、そのほとんどを支配することに成功する。しかしヒンドゥー教徒たちの不満は大きく、1336年、各地の王族が集まってヒンドゥー連合王国であるヴィジャヤナガル朝を打ち立てる。

トゥグルク朝に対抗するために北の国境付近に城塞都市が建設され、「勝利の都」を意味するヴィジャヤナガルと命名された。これが現在のハンピだ。

やがてヴィジャヤナガル朝はインド南部とスリランカまでを支配し、海のシルクロードをおさえてヨーロッパ、西アジア、南アジア、東南アジア、東アジアをつなぐ要衝として大いに発展する。ハンピの華麗な建造物群は、この時代に金や綿花、香辛料貿易によって得た巨万の富によって造られたものだ。

 

アチュタラーヤ寺院

マタンガの丘から見たアチュタラーヤ寺院

16世紀、この繁栄も終焉を迎える。1565年、イスラム連合軍はターリコータの戦いでヴィジャヤナガル軍を破るとその勢いで首都に侵入。王が南の街ペヌコンダに首都を移すと、ヴィジャヤナガルは徹底的に破壊されてしまう。これ以降、ヴィジャヤナガル朝は衰退の一途をたどり、1649年に滅亡する。

ヴィジャヤナガルは廃墟となり、交通路から外れると人々の記憶からも消え失せて、辺鄙な田舎村に転落する。しかし、おかげで遺跡はそのままの状態で約400年間その形を保ち、いまに伝えられることになる。

 
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