様々な困難に遭いながらも新しいものを求め、今に繋いだ軌跡……。
そこにいつもあったたくさんの輝石……。
宝塚歌劇団100年へのキセキのひとコマをご紹介いたします。
――Part5「宝塚大劇場の変遷」――
■宝塚歌劇団100年へのキセキ
Part1「小林一三が目を付けた宝塚村」
Part2「タカラジェンヌの意外な誕生秘話」
Part3「宝塚歌劇 第一回公演はお伽噺」
Part4「宝塚音楽学校の移り変わり」
Part5「宝塚大劇場の変遷」
Part6「東京宝塚劇場の変遷」
Part7「『モン・パリ』~レビューの誕生」
Part8「『パリゼット』~レビュー黄金時代」
Part9「海外公演~世界へ羽ばたくタカラヅカ」
Part10「宝塚歌劇団 戦争からの復活」
Part11「宝塚歌劇団の大運動会」
Part12「『虞美人』~小林一三翁逝く」
Part13「『華麗なる千拍子』~芸術祭賞」
真っ赤な絨毯。華やかな緞帳。オーケストラのチューニングの音。入った瞬間、これから始まるステージの世界に引き込んでくれる空間、それが宝塚歌劇の劇場。
今回は本拠地、宝塚大劇場の変遷をご紹介します。
宝塚大劇場
パラダイス劇場
1914年(大正3年)4月1日~こけら落し『ドンブラコ』『浮れ達磨』『胡蝶』
Part2「タカラジェンヌの誕生」、Part3「宝塚歌劇 第一回公演」でお話したように、宝塚歌劇の最初の劇場は、宝塚新温泉内のパラダイス劇場。室内プールの水槽の部分を客席、脱衣場の部分を舞台に改装して作った、キャパ500名の劇場でした。
公演回数は年4回で、宝塚新温泉の入場料を払えば観れるというものでした。
公会堂劇場
1919年(大正8年)3月20日~こけら落し『こだま』『千手の前』『家庭教師』『桶の中の哲学者』『文珠と獅子』
不入りの時期もあったものの、客入りはどんどん増え、パラダイス劇場だけでは手狭になってきました。そこで、廃止の決まっていた箕面公会堂を移築し、公会堂劇場としてオープン。キャパはパラダイスの3倍の1500名。
パラダイス劇場では、これまで通り御伽噺を題材にしたものを、公会堂劇場は、男性ファンが増えていたこともあり大人向けの作品を上演しました。
こうして始まった二部制が組制度に変わり、1921年(大正10年)10月に花組と月組が誕生したのです。
しかし、1923年(大正12年)1月22日早朝、公会堂劇場から出火。パラダイス劇場や宝塚音楽歌劇学校の建物までも全焼してしまいました。
宝塚中劇場
1923年(大正12年)3月20こけら落し 『吉例三番叟』『花王丸』『護花鈴』『琵琶記』『夜の潮』『あこがれ』
火災からわずか二カ月で建てられた木造の劇場です。キャパ1200名。
この中劇場は後に宝塚映画劇場、宝塚新芸劇場と改名されるものの、昭和47年まで活躍しました。
また中劇場と合わせ、これも新しくしたパラダイス内の音楽室を宝塚小劇場としても使用しました。