イーストウッド監督と脚本家ダスティンの思い
この映画は、一歩間違うと「20世紀を代表するアメリカの権力者が実はホモだった」とマスコミが書き立てそうな、下世話な暴露モノになってしまう危険性をはらんでいる、そういう難しいテーマを扱っていると思います。そうならなかっただけでもスゴいのですが、あまつさえ観客に涙させるほどの名作になったのは、ひとえに監督と脚本家のおかげです。
クリント・イーストウッド監督の『グラン・トリノ』(老いた白人男性と東洋人の少年との「男どうしの」友情)、『インビクタス/負けざる者たち』(白人と黒人の和解を象徴する南アフリカのラグビーチームの実話)という名作に涙してきたゴトウは、監督がそのヒューマニティをきっと同性愛に向けるはずだ、今度はゲイを描く映画を撮るにちがいない、と思っていたのですが、今回、本当にその通りになったのでした。
とはいえ、いわば「男気」みたいなことをひたすら描いてきたイーストウッド監督ですから、いわゆるゲイテイストな(『プリシラ』みたいな)作品は撮れません。そこで、『ミルク』の脚本家であるオープンリー・ゲイのダスティン・ランス・ブラックが起用されたのだと思います。
ダスティンは膨大な資料から丁寧にエドガーという人の本当の姿(内面)を掘り下げ、その人間としての魅力や、クライドとの愛の真実が伝わるような物語を紡ぎ上げました。その脚本をもとに、イーストウッド監督は、本当にひとかけらの偏見も持たず(ホモフォビックな視線などいっさいなく)、ある意味「愛」を込めて二人の関係を映像化したのです(ダスティン自身、そのことに驚いたそうです)
今や「同性愛者が軍隊の士気を下げる」という偏見はようやく見直されることになりましたが、街にはびこる悪者を成敗する「Gメン」(男の中の男)が実はゲイだったという『J・エドガー』は、きっと多くのアメリカ人に相当なショックを与えたのではないかと思います。これはうがった見方ですが、クリントとダスティンは図らずも「共謀」し、あるアメリカ的な価値(ジェンダー観)をひっくり返すことに成功したのです。つまり、アメリカという国を誰よりも強く守り抜いた最もマッチョな男たちこそがゲイだった(ゲイ=なよなよした女々しい人などではない)という転倒です。これがもうちょっと前の時代であれば、「ホモソーシャルな関係の中の同性愛願望を暴く」といった文脈の中で語られていたかもしれない、そうなりがちな素材でした。でも、クリントとダスティンはそのようにはしなかった、純粋に二人の愛の関係を(祝福とともに)描いたのです。
脚本家ダスティン・ランス・ブラックとクリント・イーストウッド監督の双方の思いが見事に結晶し、この『J・エドガー』という奇跡を生み出したのだと、ゴトウは思います。他の組み合わせでは、こうはならなかったのではないでしょうか。
そして、レオナルド・ディカプリオとアーミー・ハマー(『ソーシャルネットワーク』の双子役)の演技も素晴らしかったです(特にディカプリオの表情がイイ。こんなにセクシーだったのか…と感嘆させられました)