ヴィエリチカ岩塩坑の歴史
坑内に引かれた荷車の線路跡。荷車は馬に牽かせていた ©牧哲雄
坑道の壁面。何気ない模様が美しい ©牧哲雄
ちょうどその頃、この周辺にはいくつもの都市国家が栄えていた。ミェシュコ1世はこれを統一し、ポーランド公国を興した。1025年、ローマ教皇によって王の座を認められると、ポーランドは王国を名乗るようになる。そして1038年、国王カジミェシュ1世は首都をポズナニからクラクフに遷都する。
カジミェシュ1世はクラクフ近郊にあったヴィエリチカの採掘権を得ると開発を進め、1044年、世界初となる採掘・製塩会社を立ち上げる。当時の人々にとって、塩は味付けはもちろん、魚や食料の保存に欠かせないものだったが、内陸部では塩を手に入れるのが難しく、非常に高価な商品でもあった。
そのためここで採れる塩は高値で取り引きされ、ポーランド王国に莫大な富をもたらした。14世紀以降、ヴィエリチカ岩塩坑ひとつで王国の利益の30%を稼ぎ出し、塩は「白い金」と呼ばれるまでになる。19世紀頃には衰退するが、岩塩坑は最終的に9層構造、深さ327m、総延長約300km、部屋数約2,000に達した。
ヴィエリチカ岩塩坑の見所
坑道を支える支柱と、支柱を覆うように固まった塩の結晶。通称「塩のカリフラワー」 ©牧哲雄
見所は坑道やトンネル、掘削機など採掘のための施設、坑夫たちが働く様子を表した像などのほか、すでに紹介した「聖キンガの物語の間」「聖キンガ礼拝堂」「ドワーフの間」などがハイライトとなる。
聖アントニー礼拝堂の祭壇。湿気でイエス像が溶けかけている ©牧哲雄
また、見学途中に現れる地底湖は人工のもので、地下水をここに集めて処理していた。地底湖の塩分濃度は30%にもなり、ここに入ると死海のように浮くらしい(もちろん遊泳禁止)。
なお、こうした地下水や観光客の呼気がもたらす湿気によって岩塩の溶解が進み、ヴィエリチカ岩塩坑は1989年に危機遺産リストに登録された。しかし換気装置の導入が進むと、1998年にリストから削除された。