【ライター】服部 貴美子さん 株式会社天進 代表。大手証券会社で6年間のOL生活のあと、フリーのライターへ。現在は、独立・開業企業をテーマにした月刊誌「アントレ」、飲食店経営の専門誌「日経レストラン」など、多数の雑誌を執筆するライターとして活躍中。2001年には「好きなことで飯を食う」をテーマにしたコミュニティ「すきめし」をスタート。月1回の勉強会も好評。 |
難 易 度 ★★★☆☆
かかる費用 ★☆☆☆☆
みなさんがよく目にする雑誌などの記事。それらは「ライター」と呼ばれる方々が執筆しています。ライターと一言でいえども、フリーのライターから、どこかの企業に所属をしているライターまで、働くスタイルはさまざま。今回は、金融関係の仕事に就いたあと、ライターの道を歩んでこられた服部貴美子さんにお話を伺いました。独立後、どのように仕事へとつなげてこられたのか、ご覧ください。
子どもの頃から好きだったこと、得意なことを突きつめる ~一歩を踏み出すまでに~
「会社を辞めます。」「次にやりたいことは決まっているのか? 決まっていないなら、次の仕事がみつかるまで、この会社で働いたほうがいいんじゃないか。」入社4年目、1994年の年末のこと、大手証券会社へ勤めていた私と上司は、こんな会話を交わしていました。そのころは、会社を辞めたいという気持ちでいっぱい。結局、年末年始ゆっくり考え直してみなさい、との上司の言葉におされ、結論は出さずそのまま年を越すことに。新しい年を迎え、なかなか上司とその話をする時間がとれずに迎えた1月中旬、阪神淡路大震災が起り、住んでいたマンションが全壊してしまいました。会社を辞めるもなにも、とにかく生きねば・・・という状況のなか、会社は、寮2部屋を、私と家族の分として用意をしてくれ、従業員組合からは見舞金をいただくなど、色々な面で助けていただきました。そうなると、「家が見つかったので、辞めます。」というわけにもいかず、先立つものも必要になってしまったこともあり、その後2年間勤め続けました。その間、自分に何ができるのかをゆっくりと考え直し、いろいろなお稽古事に通うなど、「自分さがし」の日々を送りました。はじめは同じ業界への転職を考えましたが、同じ業界でその会社以上に環境のいい会社はないことはわかっていたので、選択肢からはずしました。そして、子どもの頃から好きだったこと、得意なことを突き詰めて考えたときに、書くことしかないかな、書くことなら、遅くからのスターとでも巻き返せるかな、とも思ったのです。私は、海外旅行へ行ったり、ブランドものを買うタイプでもなかったので、1年ぐらい無給でも、1人で暮らしていけるだけの貯蓄はありました。その安心感も手伝って、これからのことは、ライターとしてやりはじめてから考えればいいと思い1997年3月に会社を退職。ライターへの第一歩を踏み出しました。
編集プロダクションの社長が夜逃げを…… ~離陸前に吹いた向かい風~
証券会社に勤めながら、数あるお稽古のひとつとして通っていたのが、編集のスクールです。全12回コースで、12万円~15万円ぐらい。当初のカリキュラム通りに講師陣が来ないなど、予想外のこともありましたが、一応編集業務をしている人に会うことはでき、初仕事は、講師の先生からもらいました。その仕事を請け負ったことが、会社を退職するキッカケにもなりましたが、その後、仕事はほとんどなく、貯蓄を切り崩す日々。そんなとき偶然見つけたのが、当時花盛りだったパソ通(*1)のフォーラムに出ていた関西在住のライター募集の告知。早速応募をしたところ採用となり、「ぴあ」の編集プロダクションから仕事を請けるようになりました。最初は、200文字程度の記事からスタート。原稿を提出すると「読者は若い子なので、記号をいれるとか、ハートをいれるとか、もっと軽い感じで」と言われ、媒体にあわせて記事を書くトレーニングをしました。1998年を迎える頃には報酬をもらえるようになったのですが、翌年、その編集プロダクションの社長が夜逃げをしてしまって。(笑)20万円ほど未払いになりました。ですが、その編集プロダクションにいた編集の方がほかのプロダクションや出版社へいけば声をかけてくださるし、他の媒体へ自分から営業へいくときも、見せる作品(記事)があったので、その後はスムーズに仕事へつなげていけるようになりました。(*1インターネットが普及する前に良く使われていたコンピューター間通信のひとつ。)
どれぐらい本当に願っているか ~思い描いていた道へ~
ライターになったころに参加したライターの交流会で、自己紹介シートに興味ある雑誌名(書きたい雑誌)を書く欄がありました。そのときに書いた雑誌名が、ライターになったころから憧れていた「アントレ」と「日経ウーマン」。そのころは、ある雑誌の編集部へ何度企画を持っていても採用されず、「きっとOLなんてやってた人はこの業界には向かないと思われてるんだ」とか、「金融出身なんていったら、お高くとまっていると思われる」と思い、「食べることが大好きなんです!」等、本当の自分とは違う面を見せて自分を売り込んでいました。そうなると、「アントレ」や「日経ウーマン」の仕事には近づかないですよね。その流れが変わってきたのは、自分が愛読していた「ケイコとマナブ」の仕事をはじめたころから。キッカケは、営業で東京へ行ったとき、あるパーティーで「ケイコとマナブ」の当時の編集デスク(以下 デスク)と出会ったこと。お互い大阪だったこともあり「大阪に帰ったらまた会ってください」とお願いすると、了解をしてくれたのです。大阪へ帰ってからは、なんとかこのチャンスを仕事につなげたいと思い、A4サイズの紙に、企画のタイトルと概略を10件ぐらい書き連ね、毎日デスクへFAXを送り続けました。2週間ほどすると、「わかった、もう負けた。じゃあ1回仕事してみようか。」と言っていただき、結局その後8ページの特集記事を1人で担当させてもらえるまでになり、「ケイコとマナブ」の仕事を3年間続けることになりました。そのころから、私はお堅い記事が得意で、「ぴあ」でハートマークをつけるような記事を書くことは向いていないとわかり、ビジネス系の分野で各媒体へのアピールをはじめるようになりました。「ケイコとマナブ」の仕事を始めて3年後、デスクが東京への異動がきまったとき、「ケイコとマナブ」を辞めて「アントレ」を書きたいとデスクへ相談。「ケイコとマナブ」は、その後もしばらく続ける約束で、デスクの同期であった「アントレ」の副編集長を紹介してもらい、記事を書くようになりました。ライターになったころ、書きたいと思っていた雑誌にたどり着くことができたのです。心から願えば、たどりつくものかもしれません。どれぐらい本当に願っているかなのだと思います。