官僚制理論と官僚制批判理論その基礎

官僚制理論と官僚制批判理論その基礎

いろいろな事件が起こるたびに巻き起こる官僚制批判。しかし、そもそも官僚制とはいったい何なのでしょう。官僚制のなにがよく、何が悪いのでしょう。官僚制理論と官僚制批判理論の基礎的なお話をしていきたいと思います。

<目次>  

官僚制とは何か?

官僚制
官僚制の構造。官僚制は国家だけでなく、企業などにも存在する。
日本の官僚制をみていく前に、そもそも官僚とは何か、というお話をしていきたいと思います。

官僚制とは、(1)ただ1人で決定する者をトップにし、(2)そこからピラミッド型の構造があり、人が働くしくみだと考えられています。

ですから、それは「古代エジプト王朝以来」あった、といえます。

しかし、官僚制の研究で有名な19世紀末~20世紀初頭のドイツの社会学者、ウェーバーは、官僚制を「家産官僚制」と「近代官僚制」に区分しました。

ウェーバーによると、家産官僚制とは古代から中世、さらには近世の絶対主義国家にみられたものだということですが、日本でいう殿様と家臣の構造も、家産官僚制といっていいでしょう。

家産官僚制は主君と家臣の主従関係によってなりたっており、「不自由な」身分の官吏によって構成されています。つまりある家の家臣の子に生まれたら、いやでも自動的にその家の家臣にならなくてはならないわけです。

また、家産官僚制では公私の区別はないという点も特徴としてあげられます。

それに対し「近代官僚制」では身分制ではなく、契約社会のルールが官僚制を構成しています。官僚は自由な意志に基づいて官僚を選び、契約のうえ官僚になります。また、公私の区別はしっかりしています。

このような「近代官僚制」こそが「純粋かつ合理的な官僚制」であるとウェーバーは考えたのでした。
 

ウェーバーによる官僚制の特徴

官僚制と政治
ウェーバーが考えた理想的な官僚制と政治の関係。
そしてウェーバーは、12の項目の原則が(近代)官僚制の原則であるとし、官僚制の合理的側面を浮かび上がらせようとしました。

・規則による規律の原則
・明確な権限の原則
・明確な階層性(ヒエラルキー)構造の原則
・経営資材の公私分離原則
・官職占有排除の原則(世襲制の反対)
・文書主義の原則
・任命制の原則(上級者の権限の明確化、ヒエラルキー構造の保守)
・契約制の原則
・資格任用制の原則(世襲などではなく試験などで採用資格者を決定)
・貨幣定額俸給制の原則
・専業性の原則
・規律ある昇任制の原則

たとえば明確な権限の原則によって、組織内の分業体制が明確になり、合理的な仕事の遂行ができる。あるいは文書主義の原則によって、あらゆることが記録・保存され、後の検証が容易になるということがいえるでしょう。

このような原則による組織形態は国家や地方自治体だけにではなく、労働組合や企業などにもよくみられるものです。官僚制が国家に限ったものではないことは、ウェーバーも指摘しています。

そしてウェーバーはこの機械的な官僚制を、(1)結果責任をわきまえ、(2)状況を予見・洞察する能力、(3)指導者たることへの深い情熱、の3つを持つ政治家が指導していくべきだと考えたのです(『職業としての政治』)。
 

マートンの官僚制批判1:訓練された無能力

官僚制の逆機能
マートンは官僚制の合理的機能から生まれる阻害機能を逆機能と呼んだ。
ウェーバーがもっぱら官僚制を合理的側面からのみ論じている、という批判はいろいろでてくるのですが、その代表的な論者がマートンという人です。

マートンは官僚制のなかに「訓練された無能力」という現象を見いだしました。

例えば、官僚制内部では前のページでお話ししたような原則があり、これをみんなが守ろうとします。しかし、それは必ずしも合理的な形で行動に現れるわけではない、というのです。

例えば規則を守る、ということを忠実に守ろうとして、市役所の職員が大事故に遭遇したにもかかわらず、人々の救助よりも自分が遅刻せず規則とおり出勤することを第一にしようとしたりすることなどがそれです。

つまり官僚として規則を遵守することを過剰に叩き込まれた結果、官僚として訓練を受けたことが、かえって官僚としての無能力、官僚が真に行うべきことを行わない不作為を招く、ということです。
 

マートンの官僚制批判2:目的の転移・逆機能理論

またマートンは、官僚制のなかから「目的の転移」という現象も見いだしました。

そもそも合理的政策実行のための「手段」であったはずの官僚制の原則が、それ自体「目的」となってしまう。官僚制においては、このようなことがしばしばあるとマートンは指摘しています。

例えば、規則による規律の原則は「法規万能主義」となり、行政職員の杓子定規的な対応を生んでしまう。本来何かを解決するためにあるものが規則であったり法令であったりするわけです。しかし、官僚制ではしばしばそれを守ることが「目的」となってしまい、柔軟な対応ができなくなってしまうというのです。

ほかにも、「繁文縟礼(はんぶんじょくれい)」という言葉があります。「規則や礼儀などが、こまごまとしてわずらわしいこと」をいいます。

官僚制の中で文書主義が過剰に働いてしまうと、そのうち文書をたくさん作ること自体が目的になってしまうことになってしまいます。その結果、細かな規則や形式にだけとらわれ、中身の乏しい文書だけが生み出されたり、または官僚が民間に対しそれを要求するため、行政の能率が極端に落ちてしまうことが起こってしまったりします。

さらに、ウェーバーは「官僚制の非人格制」、つまり官僚制は機械のように動くことで、公平さを実現すると考えましたが、マートンは、これが不親切で横柄な態度につながると考えました。

さらには、明確な権限の原則が「セクショナリズム」となり、行政の縦割り主義・縄張り主義を生み、官僚制内部では国民の利益よりも省庁の利益が優先されるなどといったことが指摘されています。

マートンはこのような官僚制の現象を「逆機能」とよびました。当初は目的のために作られた合理的な機能、すなわち「順機能」が、同時に目的を阻害する「逆機能」としての面を持つ、ということです。

つまりマートンは、官僚制内部でしばしば自分たちの規律や方法論にこだわる結果、官僚制集団の維持そのものが目的になってしまい、市民に対する柔軟な行動などは後回しとなってしまっていることを指摘したのです。
 

その他の官僚制批判論

強固な官僚制
官僚制はいったん固まってしまうと、それを壊したり修正することが極めて難しい組織形態だとされている。
他にも、官僚制批判論はいろいろとあります。

たとえばセルズニックという人は、セクショナリズムの問題にも似ているのですが、官僚制のなかでの専門化の進行により、組織内の下位集団が、組織の目的と反する価値観や行動をとることがある、と指摘しています。

官僚制の非効率性、という面では、ワグナーという人が「公共部門の財政支出は経済の成長率を上回る速度で膨張する」と述べています。

また、ピーターという人が法則化した「ピラミッド型の組織で職員が昇進していく結果は、往々にして自分の能力を超えた地位にまで上り詰める」という指摘もあります。

しかし、官僚制はウェーバーも述べたように非常に強固なもので、なかなか打ち壊すことができない。日本だけでなく、官僚制の硬直化に悩み、政治の力をもってしても変化させられなくて悩んでいる国は多いのです。
 

官僚の「公益観」とは?

官僚の公益観
シューバートが考えた官僚が持つ3つの公益観。
シューバートという人は官僚が「公益」平たくいえば「国民の利益」をどのように考えているか、を説明するため、「公益観」を合理主義・理想主義・現実主義の3つに分類しました。

この類型は、日本の官僚制を分析するうえでも大きな意味を持つといわれていますので、ここで説明したいと思います。

まず合理主義とは、公益とは選挙や議会によって決定されるもので、官僚たちはそれを忠実に実行することで公益を実現できるというものです。官僚は政治には関わらず、もっぱら実行部分だけを行えばいいという考えです。

しかし、このような考えは一方では行政の無責任さを招くことにもなり、行政が誤りを認めないことを許してしまうともいわれています。

理想主義とは、立法機関よりも行政機関が公益を実現するうえで中心的な存在でなければならないというものです。政党によって混乱する政治から距離を置き、自律した存在になることで行政は力を発揮できるという考えです。

もっとも、この考え方は民主主義の考え方からはかなり遠いものであることはいうまでもありません。

現実主義とは、そもそも公益そのものをあまり過剰に考えず、私的利害や圧力団体の利害などによって公益はできるというものです。公益は政治のつけた優先順位によって実現されていくものであり、また急激な変化は公益を混乱させるとして好まない考え方だといわれています。

この考え方はしばしば場当たり的な対応を生み、また、官僚制そのものが私企業や圧力団体に束縛され、癒着の温床を生み出すともいわれています。

健全な官僚制とは何か、ということをこの「公益観論」で指摘するなら、ここにあげた3つの公益観がバランスよく共存していること、また官僚個人も、3つの公益観のバランスをとることを心がけること、ということがいえるでしょう。
 

日本官僚制の公益観

日本の官僚制
現代日本の官僚制では、3つの公益観から生まれる悪い面が同時に噴出しているとみることができる。
真渕勝という人は、戦後日本の官僚制の公益観が、時代によって次のように変遷してきたと考えています。

まず1960年代までは、官僚の公益観はおおむね理想主義に立っていた。官僚出身者が首相になっていた官僚優位の時代が、理想主義的公益観を後押ししていました。

しかし1970年代、現実主義的公益観が現れます。自民党政権の長期化とともに与党の力が強くなり、「政高官低」(政党が官僚よりも強い)という言葉も生まれるようになります。さらに、圧力団体の発言権も増していく状況で、理想主義的公益観と現実主義的公益観が共存するようになってきます。

そして1980年代になると、合理主義的公益観が生まれ、政治の決定に忠実に従う官僚が増えてきます。その結果、3つの公益観が日本の官僚制の中で共存するようになった、と考えられています。

このことは、日本の官僚制が歴史を経て、ある意味では健全になったといえますが、また反面、それぞれの公益観のデメリットも浮上するようになったことも示しています。

理想主義者による傲慢な行政、現実主義者が生んだ癒着構造、合理主義者たちの無責任な保身的行動。現代日本の官僚制は、この3つのデメリットが同時に噴出しているところに問題があるともいえるのです。

【参考書籍・サイト】
  • 『行政学』西尾勝 1993 有斐閣
  • 『政治過程論』伊藤光利・田中愛治・真渕勝 2000 有斐閣
  • 『政治学への道案内』高畠通敏 1991 三一書房

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