天の国と神の地とチベット人

ジョカンを取り囲むパルコル(八角街)。人々はこの周回路を時計回りに回り、これを巡拝=コルラとする。五体投地をしながら進む者もいる

ジョカンを取り囲むパルコル(八角街)。人々はこの周回路を時計回りに回り、これを巡拝=コルラとする。五体投地をしながら進む者もいる

バルコルを行く人々。中央の男性は手にマニ車を持っている ©牧哲雄

バルコルを行く人々。中央の男性は手にマニ車を持っている ©牧哲雄

ラサはまぎれもなく聖地だ。でもラサは同時にとても俗だ。たとえばジョカンの若い僧。 ジョカンの正門前で五体投地を見ていると、若い僧が満面の笑みで近寄ってくる。「こにちわ、カメラ、カメラ」といって饅頭を口にほおばってポーズをとる。あまりの荘厳さにカメラをバッグから出すこともできなかったので、ラッキーとばかりにカメラを取り出し、僧と、ついでに五体投地している人々を撮る。僧は大声で何か叫ぶと、数人の僧が集まってきて全員でポーズ。ハイハイ、パチリ。ひとりが「牛肉麺」と書かれたカップラーメンを取り出して「ジャパン、ジャパン」と大はしゃぎ。日本のじゃないし、肉、食べるんだ……。経文を唱えるときも、アクビはする、唱えている者を突っつく、私を見ては手を振る、巡礼者を押しのける――僧の態度は真剣そのものの巡礼者とは対照的だ。

たとえばパルコル(八角街)。ジョカンを取り囲むパルコルと呼ばれる周路を歩いてくると、ストリートチルドレンが死にそうな顔をして物を乞うてくる。彼らは屋台の焼き鳥屋の下に捨てられている骨を集めて食べていたり、ビニール袋に穴をあけて服にしているような子供もいる。毎日毎日パルコルを歩いているとやがて彼らと顔見知りになり、彼らを見ては冗談で逃げ回っていると、やがて鬼ごっこになって、満面の笑みで追いかけっこをする。こうして一緒に遊ぶようになると、私に何かをねだることは2度となくなった。もっとも彼らには観光客はもちろん、現地の人々もお金をめぐむ。すでにそれが社会のシステムとして成立している。

 

五体投地しながら歩を進める僧 ©牧哲雄

五体投地しながら歩を進める僧 ©牧哲雄

たとえば食堂。チベット人でにぎわう店があり、私もチベット料理を食べてみることにした。ところがメニューもなければ中国語もほとんど通じない。うろたえているとチベット人の女の子がすばらしい笑顔で私を席に案内し、チャイ(お茶)とトゥクパ(うどん)を運んでくれた。チャイがおいしかったので3杯飲んでゆっくりしていると、どうもみんなお金を先に払って食事をしているようだ。でもお金の請求はいっさいない。そのあとお金を払って店を出ると、女の子は中国語で「明天、明天(明日、明日)」といってまた微笑みかけてくれた。

こんな話はいくらでもある。街を歩いているおばあさんにカメラを見せて「撮らせて」というと笑みで応えてくれるし、お金を要求されたことなど一度もなかったどころか、家に招待さえしてくれた。寺の僧は街で捨てられたストリートチルドレンあがりが多く、とても貧乏らしいが、その僧すら私を部屋に招待し、甘いお菓子を振る舞ってくれた。

当時の私の日記にはこんなことが書いてあった。「なぜ彼らはあんなにすなおに笑えるのだろう? どうしたら自分はあんなふうに笑えるようになるのだろう?」。聖と俗の交わる国、チベット。チベットは「天の国」を、ラサとは「神の地」を意味する。もしかしたら、彼らは本当に天国にいるのかもしれない。