フレンチ/東京のレストラン

ピエール・ガニェール単独インタビュー!!(2ページ目)

「僕は平凡にただ真面目に仕事をしているだけなんだ」そう語るピエール・ガニェールは温和で、とても暖かい表情を持つ料理人だった。

嶋 啓祐

執筆者:嶋 啓祐

フレンチガイド

プラダ
故郷を語る彼の眼は遠くを見つめる美しい眼差しだった
『生まれ育ったフランス中東部アピニャックはどんなところでしたか』

そうだね、人口で言うと200人足らずの美しい風景以外何もない山あいの小さな村なんだ。祖母は農場とオーベルジュを経営していて、とても家族的なオーベルジュだったなあ。といっても特産品なんかない何の特徴もない田舎だ。食べたものの記憶なんてあまりないなあ。牛乳をあっためた時に薄い膜ができるでしょう、それをパンにつけて食べたり。そう言う意味では結構貧しい生活だったかも知れない。フランスの田舎の大半はその当時結構貧しいものだったんだ。

『それは意外ですね。美味しいものを食べて育ったものだと思っていましたが、フランスもいろいろあるんですね。さて、初めてキッチンで仕事を始めたときの様子をお聞かせ下さい。』

もう40年も前だな。14歳のときにレストランでお菓子を作るところから始まった。それはほんの数ヶ月で終わってそのあとは調理師学校へ通い、夏の間などはポール・ボキューズなどにアルバイトに出掛けたりして勉強していた時期だ。

『その頃の料理はどんなものだったんですか』
40年前だからね。ソース主体のバリバリクラシックなものだよ。重く、見た目に美しさを感じないもの、そして種類も少なく同じような料理ばかりだった。当時の料理界はポールボキューズ、トロワグロ、ピック、ピラミッド、ベルランなどがあったが、地方のレストランの名声はその地方の中だけであって、決してパリなどの大きなところで話題になっていた訳ではないんだよ。

そうしたことが変わったのが1976年にゴーミヨが出てからだ。その意味ではフランスでレストラン情報が充実し、それによって料理が変わってきてからまだ30年くらいしか経ってないんだ。

73年にはアメリカでも仕事をして、その後パリのルカ・キャールトンやインターコンチネンタルホテルのレストランでも仕事をした。南仏のレストランでも仕事をしたよ。8ヶ月ほどだったけどね。

『特に影響を受けた人はいますか』

うーん、特に一人の人から影響を受けたということはないな。これについてはここで語るにはテーマが大きすぎる。僕の人生をすべて語ることになるのだからね。むしろ今のほうが多くの方々の影響を受けているといえる。様々な人と会って、そこからいろんな知識や情報をもらい、自分なりに受け入れているんだ。そして、そうしている自分自身からいろんなことを学んでいるといえる。

『フランスの食材と日本の食材の違いをどのように感じましたか?』

とにかく野菜が高いのには驚いた!! 信じられないね。魚介類は新鮮で素晴らしい。ただしフランスのものとはテクスチャが違うので調理方法は変えることになると思う。

『日本のフランス料理店のレベルについてはどう感じていますか?』

ブラッスリーについてはいまいちだねえ。パリの雰囲気が再現できていないよ。これは仕方ないといえばそうかも知れないけど。ただし、日本の料理人のレベルは素晴らしい。やや味覚的に乏しいところもあるけれど、出来栄えはとても素晴らしいと感じる料理が多い。
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