「どうしてお前なんだよ!? 一体どうして!!」
「……」
「俺は努力したよ!! お前の10倍、いや100倍 1000倍したよっ! 風間さんに認められるために!! ペコに勝つために!! それこそ、朝から晩まで卓球の事だけを考えて……卓球に全てを捧げてきたよ、なのにっ……」
「それはアクマに卓球の才能がないからだよ」
「……」
「単純にそれだけの話だよ。大声で騒ぐほどの事じゃない」
青春に特有の純一さ、残酷さが直截な表現で描かれているのですが、しかし私は、不思議と嫌みを感じませんでした。それは月本の言葉に、誰にでもその人にふさわしい存在の仕方がある、というメッセージが込められていると思えたからです。
映画のそのシーンを目にし、原作で再確認したとき、なぜ連載中の原作に「挫折」したのかわかったような気がしました。高校生とは思えぬほど老成した月本の言葉を、当時の私は理解できなかった、いや、了解したくなかったのではないか、と。
この物語は必ずしもそれが卓球でなくてもよい普遍性を持っているのですが、やはり卓球を題材としたことで、物語のテーマがより深みを帯びたのではないかと思われます。
卓球は人間の反応速度の限界を争うスポーツであり、「才能」がものをいう競技といえるのですが、その一方で、「才能」だけでは勝てない競技でもあります。センス抜群の卓球が、頭脳の卓球に蹂躙されることもあれば、努力の卓球に苦杯を喫することもあるのは、卓球経験者なら誰しも納得するところでしょう。
足の速さ、背の高さ、腕力の強さなど、それ自体が絶対的な才能となるスポーツとは異なり、卓球は、プレースタイルや戦術の工夫次第で勝てる余地が大きく残されているスポーツです。それゆえ、才能を持つ者も、持たない者も、自分の限界を見極めるのが難しく、映画でいえば、星野に「疑念」を生じさせ、佐久間に「幻想」を抱かせることになります。
私もまた「佐久間」であることを知りつつも、その事実を認めたくなかったのではないか。単行本を一気に読破し、自分の才能とどう向き合い、どう折り合いをつけてゆくのか、という人生のテーマを受け容れられるようになったいま、連載に挫折した理由がわかったように思えたのです。