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リングス活動休止から3年。カリスマの次の一手は何か 前田日明再浮上の背景(下)

リングスの創始者前田日明が、三年ぶりに表舞台に浮上した。その背景にあるものと、前田が業界にもたらした功罪について、再度分析してみよう

執筆者:井田 英登

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遅すぎたKOK改革

だが、リングス後期、前田の周辺からはそうしたポジションに居た人間が、次々に放逐されていったのも事実である。

例えば、一番顕著な例としては、高校時代からの友人であり、前田の選手としてのイメージ作りを後方支援し続けた田中正吾氏がいる。彼は1994年初頭に、旧UWF時代の金銭疑惑を理由にリングス取締役の座を追われている。それまで破竹の勢いで格闘界をリードしていたリングスが、初期の「格闘技ネットワーク」というスケールの大きな“物語”を失速させ、かつてのUWFの盟友であったUインターやパンクラスとの確執に拘泥しはじめたのと機を同じにする。

一方、世界的にK-1やUFCといった本格的リアルファイトビジネスの勃興もこの時期の話。その“外部”の新しい時代の動きや空気感を、プロデューサー不在のリングスは読めないままだったのだ。

「自分のやりたいのは残念ながらプロレスではなく、格闘技です」と言い切った当時の前田ではあったが、逆にその言葉に対して当時週刊プロレスの編集長であった山本隆司氏が投げ返した「リングスがプロレスでないというなら、本当にやりたい戦いは何かを見せてほしい」という回答を、前田は提出する事が出来なかった。

田中氏という有能なプランナーを失い、当時国内の格闘技団体との接点を作り始めていた「実験リーグ」も中断、ルールは十年一日のUWFルールのまま。VTルールの試合を数試合組んでは見たものの、結局本戦にフィードバックする要素もないまま、リングスは“鎖国”を続ける。

表面的には、Uインター(キングダム)解散を受けて、田村潔司、金原弘光、山本健一(当時)といった日本人新戦力を獲得したものの、そこに格闘技としての世界観の変化は一切なかったのだ。

前田引退を機に導入されたKOKルールではあるが、正直、その動きは世界的な総合格闘技の進歩から言えば、4年は遅かった。本来なら遅くとも1994年、山本宣久(当時)が「ヴァーリトゥード・ジャパン」でヒクソン・グレイシーに破れた段階で、なされていなければならない改革だったような気がする。

一方、PRIDEがファンの支持を得たのは「世界標準」であるヴァーリトゥードルールを、積極的に日本に持ち込み、それを市場化したからにほかならない。市場原理は顧客の多い者を勝者に指名するわけだが、リングスの崩壊は単なる巨大資本による切り崩しだけでは説明がつかない。UWF以来、ファンは前田に常に新しいチャレンジを求めて来たはずだ。そして、既成勢力に抵抗して行く“運動体”としての価値が、前田の最大の「商品価値」でもあったはず。だが、VT時代を迎えた90年代後半からは、ファンの想いをある意味“受け止めかねた”ことが、彼のブランドとしての価値を落とした原因だと思う。その意味で、リングス崩壊は、前田プロデューサーの“失策”であると断じていいのではないだろうか。
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