むしろ考えられるのは、「不動心」というおなじみのキャッチフレーズがイメージさせるように、中国拳法の達人か何かのように、静かな日常を維持し、日々人一倍穏やかに暮らすことで、余分な感情として発散されてしまうはずのエネルギーを溜め、リングの上での爆発的な力に変換しようという、人間充電器のようなことを考えて無理やり節制しているのではあるまいか…。それにしたところで、どこか東洋哲学的な不思議な匂いが漂ってきて、極めてマッドな話になるが、近藤という神秘的なキャラクターはそんな妄想を掻き立てる部分が確かにある(笑)。そこに矢野卓己もびっくりの“東洋的オカルティズム”の一つも見出したくなるのは、リングに上がったときの近藤の鬼神的なパワーを知っているからだ。実際、彼の打撃は、あの体格、あの表情からは想像もつかないような殺人的な破壊力を誇る。あの郷野が記憶を吹き飛ばされ、石川英二にいたっては歯をへし折られて、試合後生きてリングを降りられたことに感謝をしたというほどパワーだといったら判っていただけるだろうか。

そういえば先代エースの船木も、後年実際インドの哲学者宗教者達がの肉体的修行の一環としたヨガに傾倒し、その哲学を実践した呼吸法を練習に取り入れていたりしたではないか。案外パンクラスの十年の活動は、我欲を廃しだひたすら求道的に 「戦う哲学」を追求する、実験場のようなものだったのかもしれない。まあ近藤を除けば、他にそんな風情の選手は全く見当たらないし、パンクラスには鈴木、高橋といった感情の塊のような選手もうようよしているので、その説も怪しくなってしまうのだが(笑)。いずれにせよ、あれだけ淡々とした性格でいながら、とんでもない修羅場に乗り出していく近藤という男は、やはり相当変わっているし、興味深い。もし、これで“不動心”がたんなるポーズであっても、10年近くそれを貫き通そうとする意志は相当のものではないか。

ただ、シリアスな話をすれば、パンクラスと言うのは当時のプロレス少年にとって、一世を風靡したUWFをさらにバージョンアップした究極の「夢の舞台」である。その舞台に高校卒業と共に加入することを許された近藤少年は、いってみれば少年探偵団の小林少年であり、科学特捜隊のホシノ少年のようなものである。憧れの世界に紛れ込んで、憧れの大人と一緒に活躍を許された少年は、一種の特権階級である。若くして夢が適ってしまったそんな少年は、普通の大人にはなれない。少年のまま、その世界でいつまでも冒険を続けるしかない。邪心も抱かず、ひたすら正義のために悪と戦い続ける、永遠の少年隊員…。

一方、5月の横文に続いて、11月の両国で雌雄を決する事となったライバルの菊田は、新日本、そしてパンクラスと近藤同様プロレス少年の夢を実践すべくプロレス団体の入門テストを受け、早々に挫折した組である。その菊田は、幾多の挫折を経てきわめて現実的な格闘技ビジネスの現場の辛酸を嘗め尽くしてきた。その違いが両者のメンタリティの違いにも戦いぶりにも出ているような気がしてならない。徹底した合理主義で、勝利のみを手にするために派手な打撃を一切使わない菊田に対し、近藤はまるで体重90キロのピーターパンのように軽々と飛び膝蹴りをこなし、しばしば総合の戦いでは考えがたいKO勝ちを実現したりする。現実と夢幻、二つの極をもつパンクラス。尾崎社長の舵取りによって、その矛盾する二極が交錯するとき、プロレスと格闘技が、そして船木と鈴木、近藤と菊田といった、本来交わるはずのない両極端の男たちが、一つのリングで火花を散らす舞台になるのかもしれない。