そう考えてくると、近藤の浮世離れした風情の意味も、なんとなくわかってくるから不思議だ。かつて、格闘技という「理想」に夢を抱いた船木と鈴木の二人、しかし実際に血肉をぶつけ合う格闘技は、きわめてドメスティックで現実的なものであった。観客の反応もシビアで、逆に夢見る要素と言うものはきわめて薄い。最終的にこの世界で成功を収めるのは、自分の持つフィクショナルな要素を、十の現実で強化し、最終的に四百にも五百にも膨れ上がらせて表現出来るヒクソンのような魔術師タイプか、あるいは永久機関のように内実ゼロの発明を、自分の熱意と幻想でくるんで煙に巻くアントニオ猪木のようなタイプかである。

船木も鈴木も、結局そのフォロワーとして生きるには、あまりに純粋に過ぎたのかもしれない。二人の意図したことは、己の体を限界まで削り、そこにファンタスティックな虹を見せようとした等しい。月一回の興行で、毎回それだけのアクロバットを見せようとすれば、確実に肉体と魂は摩滅するし、そこに立つ虹も輝きを失う。プロレスというファンタジーを、馬鹿正直に実践し実現しようとした二人が、結局スーパースターにまで上り詰めることなく舞台を降りたのは必然だったのかもしれない。だが、つかの間、そこにアーチは掛かった。その橋が崩れ落ちる前に夢の向こう岸にわたることを許されたのが、近藤であり菊田だったのかもしれない。

あまりに美しい桜の花の下には、きっとその盛りを支える栄養豊かな人の死体が埋まっているに違いない。そう書いたのは梶井基次郎だ。

同じ幻想を僕は見たような気がする。
船木も鈴木も居ないこの場所で、少年探偵団のエースである近藤は、今日も元気にアメリカからやってきた伝説の巨大ロボットの謎を追い続けている。一方、菊田は衣食の心配や神経をすり減らすブッキングの駆け引きに追われることなく、好きなだけ練習に没頭し、パスガード一つで会場の万雷の拍手を浴びるスターアスリートになった。

その 美しい二本の桜の樹の根元には、少し憂い顔の黒髪の美少年と、聞かん気の目つきの鋭い不良少年の死体が、背中を向け合って埋まっている。パンクラス。それは少年期の夢と青年期の現実を橋渡しする、不思議な交差点なのかもしれない。

ちょうどその10年後、近藤は自らの力で、船木鈴木が掛けたアーチを逆向きに遡る旅に出る。それが独立の旅なのか、あるいはパンクラスという理想郷の存在を根本から揺さぶる不吉な旅になってしまうのか、その結末はまだ誰も知らない。