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タイソン、ボタらボクサー参戦でK-1復活はあるのか 「世界の壁をぶちやぶれ!」

世界を揺るがしたタイソンとの契約に続いて、IBFボクシングヘビー級世界王者フランソワ・ボタがK-1参戦を決めた。この衝撃的事件は競技としてのK-1復活の序曲か? 新運営会社FEG設立を含め、混迷のシーンを分析。

執筆者:井田 英登

9月26日新高輪プリンスホテルで行われた「アルゼ K-1 WORLD GP 2003 開幕戦 ALL STARS」カード発表会見は、この半年間迷走を続けてきたK-1ヘビー戦線に一抹の光明を注ぐものとなったのではないだろうか。注目のメインイベントに、先日のK-1JAPAN GP会場でボブ・サップと乱闘騒ぎを演じ、K-1出撃を宣言した第11代IBFヘビー級世界王者フランソワ・ボタが登場、ジェロム・レ・バンナと激突することが発表されたからだ。

無論、ちょっとボクシングに詳しいファンからみれば、ボタはすでに全盛期を過ぎたオールドネームに過ぎず、今回のK-1参戦は「引退後の小遣い稼ぎだろう」と切って捨てられてしまうかもしれない。事実、ボタは1968年9月28日生まれの35歳。14年のボクシングキャリアがあると言っても最初の十年はほとんどメジャーシーンに浮上することのなかった南アフリカのローカルボクサーであり、王座挑戦すらままならなかった選手なのだから。

90年代半ばから戦場を北米に移し、初めてタイトルに絡んだのが95年12月のアクセル・シュルツとのIBF王座戦決定戦。第10代王者ジョージ・フォアマンの返上によって空位になったこの王座を争っての一戦。このときはボタは12Rを戦って判定勝利でベルトを手にしたものの、翌年ドーピングチェックで陽性反応が出たため剥奪。翌年、シュルツと王座決定戦を戦って第12代王座に就いたマイケル・モーラーに、トップコンテンダーとして挑んで返り咲きを狙った試合ではTKO負けを喫しており、実質チャンピオンとして君臨した時期はなかったに等しい。

その後、WBAの北米王座獲得後、99年5月のタイソン戦に抜擢されたのも“噛ませ犬”的意味合いが強かったのは指摘しておかねばなるまい。事実、タイソン自体が全盛期には程遠い状態だったため、ボタの5Rまでの健闘がクローズアップされたが、最終的にはKO負け。

2000年7月の三冠王者レノックス・ルイス戦にいたっては、1R目から一方的に攻め込まれてニア・ダウンのダメージを負わされるワンサイドゲーム。2R終盤にチャンピオンの鬼神の四連打を浴びて戦闘不能に陥り、スタンドダウンでの試合終了という、ほとんど子供扱いされてしまった試合だったのである。以降、主な戦績といえば、2002年3月に四大タイトル最後発のWBO王座に挑んで、ビタリー・クリチコの弟ウラジミールに滅多打ちを喰らってのTKO負けが最後。2002年7月のクリフォード・エティエンヌ戦を最後にボクシングキャリアを実質的に終えている。

言ってみれば、世界トップランクのボクサーとは言うものの、明らかに“セカンドグループ”の選手。まして、年齢的にもキャリア的にも“一回終わった”選手でしかない。かつてのフランシスコ・フリィオの衝撃的な登場のように、彼の参戦一つでK-1のリングが活性化するといった見込みは、あまり持たないほうがいいだろう。
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