“書かない”編集長の「空は空なるが故に満つる」雑誌

休刊号
たった一年の活動期間しか与えられなかった『第二期宮地ゴン格』。自らが蒔いた種の行方を見届ける事は許されるのか? 
 『ゴング格闘技』という雑誌は、どういう雑誌であったのだろうか?

 既に最後の号となった四月号の発行から一ヶ月が経過し、実物は本屋の棚からもほとんど姿を消してしまったのではないかと思うが、特に外見上特異な雑誌ではなかった。むくつけき格闘家を扱う割には軽妙と言うか、そこはかとない軽妙さを狙った写真が表紙に使われることが多く、少し“引きのユーモア”が感じられるテイストが、特徴と言えば特徴と言えるかもしれない。

 現に最終号となった通巻168号では、発行直前に開催された2/17修斗代々木体育館のセミとメインの勝者=青木真也と川尻達也が、腰にそれぞれのチャンピオンベルトを巻いて、脱力気味に直立しているツーショットの写真が使われている。

 表情も何も作らず、ファイティングポーズも無し。感情が抜け落ちた、 “素”の表情の二人の筋肉質の男が、ぽつんと白のバックの上で孤立しているのである。何を表現したいのかは全く不明だが、「何も表現しない」ことのインパクトが、逆に、“熱血”とか“意地”だのといったステロタイプの形容詞で泥まみれにされ易いこのジャンルの中で、異質の存在感を放っていた。

 ただそこに居る等身大の人間を、俯瞰の視線で見つめ、読者に向けて放り出す。ーー僕の個人的感慨から言うと、この姿勢が現編集長(既に“元”と言うべきかもしれないが)である宮地克二氏の視点なのかもしれないと思う。

 彼は、この業界の編集者には珍しく、“書かない”編集長だった。
 
 『格闘技通信』のスター編集長であった谷川貞治氏や、以前『ゴン格』の編集長を務めていた熊久保英幸氏、あるいは近藤隆夫氏にしても、格闘技界の編集者はとにかく書くし、どんどん自分が前に出て意見を口にする傾向が強い。元々格闘技が好きでこの業界に入り、格闘技を直接取材し、選手と話し、そして原稿を書く事が、自らの仕事と心得ているのである。実際、マイナースポーツである格闘技の場合、編集者と書き手を別にしていたら倍人件費が掛かるわけで、可能な限り自分が率先して原稿を書き、その隙間をライターに埋めさせて行くぐらいの気概が無いと雑誌を存続させる事が出来ないという事情もある。

 だが、そんな中で宮地氏は自分では全く原稿を書かない事を貫いた“編集専業”の人であった。本音かどうかはともかく、格闘技自体あまり好きではないと自分で語る事もあったし、あまり現場にも顔を見せない。雑誌を作るプロであり、ライターを走らせる事で最大の効果を得る事に専念した編集長でもあった。
 
 ただ、その分、その仕事内容に求める水準は高く、彼に絞られて悲鳴を上げる若手編集者も多かったと聞く。書くという主観的行為から一歩引いて、取材対象やライター、そして業界全体をも突き放した高みから見通したような、彼の“血の冷えた”手法は、逆に緻密で計算の行き届いた誌面作りを成立させていたように思う。彼には、全ての器がそうであるように「空は空なるが故に満つる」とでも言うべき、独特の美学があったように思う。それを虚ろであると感じて去る人も居たであろうし、己の才をその空隙に目一杯満たすチャンスだと感じた、高島氏のようなタイプの人間も居たのであろう。