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ジャズはアートか 『汎音楽論集』を読む(4ページ目)

ギタリスト・高柳昌行生前の貴重な発言を集めた『汎音楽論集』が昨年出版された。ジャズはアートなのか? アートだとすれば、どのようなジャズがアートなのか。いまさらながらの問いが掘り起こされる。

執筆者:鳥居 直介

アートとしての音楽家の厳しさ

もちろん、そんなことは、事実のレベルとしては当然のことだ。しかし、そのことの意味や、ディティールということに、僕は初めて目を向けさせられた気がした。意味というのは、その事実が「音楽」という分野で生きるアーティストの立場をいかに厳しいものにしているかという「意味」であり、ディティールというのは、アーティストと、アーティストではない「音楽屋」という両者の、生き方の違いである。

同じ「音楽」という言葉で、同じ「ジャズ」という言葉で、まるで違うものが同じものとしてひとくくりにされているという現実がある。どちらがいいとか悪いとか、上だとか下だとかいうことを言うつもりはない。しかし、いくらなんでも音楽アーティストの置かれた事情は気の毒というほかないと思うのだ。

いくら資本主義全盛のご時勢だとはいっても、ピカソの絵画と、鳥山明(c)の画集を同一次元で語る人間はいない(鳥山明が悪いといっているわけではない。念のため)。同じ意味で、セロニアス・モンクとKINKI KIDSを同じレベルで語るのは間違っている、といっていいだろう。でも、少なくとも音楽の場合、商品棚を見れば「同じ種類のもの=音楽」として陳列されているのだ。「混同するな」というほうが無理があるではないか。

聴衆に求められる能力

「いいじゃないか、その人なりに楽しめれば」という人がいる。もちろんそうである。しかし、もしもある種の努力――ピカソをはじめとした多くの歴史的絵画を模写し、歴史的事実を学び、何度も絵を見るといった地道な作業の積み重ね――によって、ピカソの偉大さ、あるいは凡百の画家との違いが理解できるのだとすれば、それは実は、見る側に求められても文句のいえぬ筋の「努力」とはいえないか。

感覚は平等に与えられたものだが、それによって何を感じるはどう磨くかにかかっている。努力したもの、磨いたものには、それ相応のものさしが手に入る。それでなければはかれぬものがある。だとすれば、リスナーにはリスナーの「責任」があるのではないか。

もちろん、この分業社会においては、アーティストがアートに割く時間と努力の1/10においてすら、一般のサラリーマンには割くことはできないのは事実ではある。ただ、ひとつの考え方として、そのような努力すら不可能なほど逼迫した分業社会というのはどこか間違っているのではないか、と考えてみることにはそれほど時間も労力もかからない、と筆者は思う。

高柳氏は先にも言ったように非常な勉強家であり、また、その主張は終始一貫、ぶれていない。その主張を批判することは簡単だが、現代ではお目にかかれない強い主張に触れ、そこから自分たちを含めた音楽界の現状について批評的な目を向けるほうが、生産的だし、豊かな試みではないかと思った。

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