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ジャズはアートか 『汎音楽論集』を読む(3ページ目)

ギタリスト・高柳昌行生前の貴重な発言を集めた『汎音楽論集』が昨年出版された。ジャズはアートなのか? アートだとすれば、どのようなジャズがアートなのか。いまさらながらの問いが掘り起こされる。

執筆者:鳥居 直介

なぜ、「音楽はアートである」と主張する人がいないのか

高柳は非常に研究熱心な人だったようなので、当然のことながらジャズをはじめとした大衆音楽の歴史が、エンターテイメントの歴史とともにあったということを熟知しており、「ジャズとはアートである」とは定義できないということぐらい重々承知していたと思われる。高柳はそうした理解のうえに、あえて「アートであるべきだ」と主張し、その主張を他者に受け入れさせようとしていたわけである。

そのように考えれば、今現在、日本の音楽シーンに向かって次のように語る人間が現れたって不思議はないことになる。「ジャニーズやアイドルはもちろんのこと、サザンオールスターズ、奥田民生、海外から金を求めてやってくるイーグルスや老いぼれのジャズメンたち。彼らのやっているのは“音楽”ではない。真の音楽家であれば、常に前進し、自己を革新すべきである。同じことを繰り返す人間は堕落している。そして、そうした「真の音楽家」を受け入れ、偽者を排斥するだけの音楽的理解力を、聴衆は養わなければならない。音楽聴取能力に欠けた大衆は聴衆ではない」と。でも、そんなことを発言する人は(たぶん)一人もいないのである。

「そういう発言をする人がいないのは、それが間違った主張だからでしょ?」という声が聞こえてきそうだ。そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない、と私は思う。その主張に無茶な部分があって、多くの人が受け入れなかったからといって、主張のすべてが間違っている、とは限らない。少なくとも僕は、高柳の発言の中から、ある一面の「正しさ」らしきものに気がついた。そして、その「正しさ」には、そのような無茶を言う人がいなければ、なかなか気がつけない質のものなのだ、ということにも気がついた。

それは何か。一言でいえば「アートが持つ芸術性というものを、現代社会はあまりにも軽視しているんじゃないか」ということだ。

ピカソの絵がある。ピカソ展があれば、多くの人が見物に訪れる。首をひねって帰る人がいれば、うなづいて帰る人もいる。しかし、うなづいて帰っている人の何割が、その絵の真価に気づいているのか。それははなはだ疑わしい。少なくとも、訪れた総数のうちで、ある種の「理解」にたどり着いたのは1%にも満たないだろう。これは、絵画では日常的な光景である。

音楽も同じアートであれば、ピカソと同様の事情が起こりうる。決定的に違うのは、ピカソの絵は1億円でも買えないのに、音楽の場合は、どんな偉大な作曲家の曲の、どんな偉大な演奏家による演奏であっても3000円出せば手に入ってしまう、という現実である。

この経済的事情により、音楽界では、アーティストではない人間が生きていける。というよりもむしろ、アーティストではない人間のほうが覇権を握ることができるという構造が存在する(もちろん絵画―イラストにも同じ状況が存在するが、イラストレーターはアーティストとは呼ばれない。商業美術と純粋アートの境界線は、絵画の世界ではあいまいながらも引かれている)。このことが、僕の「気づき」である。

次ページでは、「アートとしての音楽」を実践する音楽家の厳しさと、聴衆の責任について考えます。


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