南北作品。ここがちょっと違う!
鶴屋南北の作品が通しで上演!となると、ついついウキウキ気分になるのは筆者だけではないだろう。
以前ある役者さんに聞いた話によれば、これは役者も同じらしい。義太夫狂言や十八番もの、黙阿弥もののように、かっきりとなすべきこと、型が決まっているとは限らず、その場、その公演、顔合わせによって、まだまだ工夫のしどころがいっぱいあるのだという。
「黙阿弥は南北よりずっと後の時代の人ですから、もっと歌舞伎を美化して作っているところがある。型も決まってるものが多い。でも南北のものは、上演のたびに役者が新たに造っていくことが多い。役者にとっても面白いですね」と。
実際に観てみると、確かにそうなのだ。「誰それの弁慶」「誰それの知盛」「誰それの弁天小僧」といった役者の存在が前面に出てくることの多い他の狂言とやや異なり、江戸の、物語のその世界の中を縦横無尽に駆け抜ける「人間たち」を観ているような気がするのだ。