「襲名(しゅうめい)」・・・役者が先祖・父兄・師匠その他の先人の名跡(みょうせき)を継ぐことをいう。役者名(芸名・俳名・宗家名・弟子名)は、役者が舞台へ登場する際のはれ名であるから、襲名は先人のその芸風・信用・地位を引き継ぐわけで役者生涯の重要事となる。(『歌舞伎事典』平凡社 より)
2001年、十代目坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)の襲名披露興行が始まるのはご存知のとおり。2000年現在の坂東八十助(ばんどうやそすけ=大和屋・やまとや)が、2001年1月1日以降、坂東三津五郎の名跡を継ぐことになる。代々の三津五郎は舞踊の名手といわれるが、現・八十助、次代の三津五郎も坂東流を率い舞踊を得意とする役者の一人だ。
坂東三津五郎という名跡(相続されるべき名前)それ自体について、少々調べてみた。初世は1745年にさかのぼる。前名・竹田巳之助(みのすけ)。浜芝居の役者が初世坂東三八に見こまれ弟子となり三津五郎と改名し森田座で活躍。立役・女形・所作事(しょさごと)が得意だったという。
二世の前名は尾上門三郎。三世の前名は坂東巳之助、初世坂東簔助(みのすけ)、俳名は秀歌。江戸役者の大立者となり、舞踊坂東流を築いたといわれる。四世は前名二世坂東簔助、さらに座元名というのがあり十一世森田勘弥を名乗っている。
五世は前名が初世坂東玉三郎!! 女形の名優だったそうだ。六世は前名が初世坂東吉弥。通称吉弥三津五郎。
このあたりで明治維新となり、七世は本名守田寿作。前名二世坂東八十助。舞踊の名手であり、芸談を多く著している。やはり踊りで有名な名優、六代目尾上菊五郎と好敵手であったといわれる(六代目が三津五郎のことを「じゅさくちゃん」と呼んでいたという一節を何かで読んだっけ)。
八世は本名守田俊郎、初名三世坂東八十助、前名六世坂東簔助。七世の養子で彼にも歌舞伎に関していくつか著書がある。フグの毒にあたり亡くなったという話題でも知られる。九世が現八十助の父。「喜撰(きせん)」「越後獅子」などやはり踊りの名手。
こうしておおざっぱに眺めると、「みのすけ」「やそすけ」「しゅうか」「もりた」という名が共通して現われる。現八十助の息子も「巳之助」。出世魚のように格が上がっていくたびに、継ぐ名跡も変わっていくのだ。また養子縁組が複雑にからみあっているので、遺伝子というものがどう影響するのか定かではないが、体型や体質の類似点を少なからず継承し、代々踊りの名手が生まれているところが面白い。名前が先か、芸が先か。それが観客やご贔屓を魅了し続けるノウハウのひとつになっている。「襲名」という伝統のシステムの合理的な面だ。
写真は1月歌舞伎座に飾られた新・三津五郎への祝幕
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