始まりは下りホームから

下り電車は帰宅を意味する

下り電車は帰宅を意味する

その日も暑かった。とうに日は落ちているが郊外へ向かう電車は、強烈な冷気の中に勤労者たちの日中の熱と疲れを閉じ込めていた。席に座れなかった乗客はより一層疲労の気配をただよわせてうつろな目をしているか、携帯電話画面に集中していた。その男は、夕刊紙を読んでいるふりをしながら、先ほどから座席で目を閉じている女に幾度となく眼鏡越しに視線を這わせていた。目の動きを悟られないように黒いフレームの眼鏡だ。

女はうつむいており、セミロングの髪が両側から顔をなかば覆っていた。音楽プレーヤーの白いコードが見える。電車の揺れに乗じるようにわずかに頭が揺れている。年のころは20代前半。しかし、中心がずれたカットソーの肩からブラの肩紐がのぞいている。そんなところに「ユルさ」を感じて、男は新聞に目を戻しながら鼻で笑うように唇の片端をわずかに上げた。

下り電車の始点であるターミナル駅のホームから、男はその女に目をつけていた。中肉中背でそれほど流行を追っているというほどでもないが、そこそこの露出度の服装で自己主張の強さを感じさせないごく平均的な会社員に見えた。夕方以降に下り電車に乗っているということは、これから自宅に帰るとみて間違いない。つまり、女の後をついて行けば、自宅を突き止められるのだ。

乗車待ちの列に並んだ女の後ろにさりげなく並んだ男は、その女の住まいを想像していた。ワンルームか1DKくらいだろう。一人暮らしと考えたのは20代前半という年恰好と女の左薬指に指輪がないことだった。あるいは実家暮らしかもしれないが、男にとってこれは直感であり、小さな賭けなのだ。経験上、実家暮らしの女の場合、比較的警戒心が強いと思っている。だが、この女には警戒心がまったくなかった。

降りる人が多く、乗り込んでくる人が少ない下り電車は徐々に混雑が解消していく。運よく、女の斜め向かいの席が空いたところに座ると男はまた新聞と眼鏡越しに女を眺めた。居眠りをする女の両膝は離れていた。次の駅を知らせるアナウンスの声はあまり聞こえない。それでも女はそろそろ降りる駅だと認識したらしく、顔を上げて眠そうな目で振り返って暗い窓の外を見た。男は窓ガラスに顔が映らないように新聞で顔を隠した。

女が立ち上がってから、男は女のほうを見ないようにして夕刊紙をたたんだ。間に他の乗客を挟むようにしてごく自然に下車した。夕刊紙で扇ぐように顔を分かりにくくした。駅にはだいたい似たような場所に防犯カメラがあるので、顔が判明しないように警戒したのだ。チャージ式の電子パスカードで改札を出るときも額に手をやるなどさりげなく顔が見えにくくなるようにした。

女がヒールを履いており、スカートであることから自転車ではないと読んでいた。自転車で帰られたら追いつけない。
(これはゲームだ。読みが当るかどうか、ギャンブルだ)
女が駐輪場と表示がある方角に向かわないことからも徒歩で帰宅すると思われた。
(ビンゴ! さあ、ラウンド2の始まり始まり……)
男は不審がられないような距離を保ち、ごく自然に女の後を歩き出した。

2p.コンビニの防犯カメラ
3p.個人情報入手
4p.女の自己防衛ポイントチェック