初めての海外旅行
クリスマス・イルミネーションが燦めくピカデリー・サーカスで、エロス像を見上げながら、美咲はまだ信じられない気持ちだった。
「あー行ってみたいな……」。
企画会議のコーヒーブレイクで、雑誌のロンドン特集に目を通していた美咲が、ふとつぶやいたのを聞いて、後輩の杉本達弥が言ってきた。
「先輩、ロンドン行きましょうよ」
「なんでわたしが杉本と旅行しなきゃなんないのよ?」
「やだな、先輩がひとりで行くんですよ」
「忙しくてツアーとか選んだりしてるヒマなんてない」
「わかりました。それじゃ僕が手配します」
いつもは頼りない杉本が、このときばかりは張り切って、あれよあれよという間に、美咲の「ロンドン 5 日間の旅」が決まってしまった。入社して以来、責任あるポストを任され、有休をほとんど消化できずにいる美咲への、部下からの思いやりだった。
「まさかとは思ったけど、こんなことでもなければ、ロンドンになんて、一生、来ることはなかったかも。とりあえず、杉本に感謝しなきゃいけないわね。お土産は何がいいかしら」
昨日は、ケンジントン宮殿を見てから、クラリッジでアフタヌーン・ティー。その後、王室御用達のお店を何軒か見て回った。「今日は最後の自由行動日。大英博物館で過ごそうかしら」
美咲は、ピカデリー・サーカスから大英博物館まで、途中コベント・ガーデンに寄りながら、歩いて行くことにした。ピカデリー・サーカスから東に 5 分ほど歩き、チャイナタウンを横目に見ながら、レスター・スクエアにさしかかったとき、美咲は、なぜかピカデリー・サーカスに戻ってしまったような錯覚に陥った。というのも、あのエロス像のキューピッドが、突然、目の前に現れたからだ。
「え、どうして、またここに出てしまったのかしら?」
立ち止まってあたりを見回していた美咲は、思わず叫びそうになった。
「う、動いた!」
そのエロス像は、美咲に向かって歩いてきた。驚きのあまり、美咲は動くことができず、ただ立っていたのだが、近づいてくると、その正体が分かり、美咲はホッとした。それは、エロス像ではなく、天使と見まちがえるほど美しい金髪をなびかせた青年だった。
美咲は、目をしばたきながら、ひとりつぶやいた。
「わたしったら、人間と銅像を間違えるなんて…。これも時差ぼけのせい? 今日は、これ以上、歩くのは無理みたい。博物館まではタクシーに乗ってしまおうかしら。それにしても、完璧な金髪だわ……」
美咲がタクシーを止めようとしたその瞬間、青年が話しかけてきた。
「タクシーになんて乗る必要ありませんよ。すぐそこなんですから」
「え?」
「大英博物館にいらっしゃるんでしょう? 日本人の観光客は、皆さんそうだから…」
金髪の青年は、困惑する美咲に微笑みながら、こう言った。
「僕も同じ方向に行くところなので、よろしければ、ご案内しますよ」